[ジョージア]独裁者スターリン、スターリン博物館(Stalin Mseum)in ゴリを訪問、独裁者の生涯について学ぶ

1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計上の数字でしかない
とスターリンが言ったかどうかはわからないが、スターリンの「大粛清」(1936~1938年)では、134万4923人が即決裁判で有罪に処され、半数強の68万1692人が死刑判決を受け、63万4820人が強制収容所や刑務所へ送られたとされています。これはロシア連邦国立文書館にある統計資料による数値ですが、様々な統計上の数字があり実際のところはわからないそうです。
スターリン博物館(Stalin Mseum)に展示された肖像画
スターリン博物館(Stalin Mseum)に展示された肖像画

冒頭の引用は出典は明らかではないものの、大粛清という史実の故、スターリンが言ったものと信じられています。独裁者スターリンとはどんな人物だったのか、その手がかりを得られる博物館がジョージアのゴリにあります。展示物からスターリンの生い立ち、権力掌握から独裁から死に至るまでの様子を展示物から観ることができます。

スターリンの生い立ちと青年期を展示物から学ぶ

ソビエト連邦の指導者であったスターリンはジョージアのゴリ出身、名は「ヨシフ・ジュガシヴィリ」。母はが裁縫師、父は靴職人の家庭にロシア帝政期の1878年に誕生しました。3人兄弟でしたが、兄弟は病死してしまいます。

ジョージアで「ソソ」と呼ばれる人がいたら、その人の名前は「ヨソフ」です。そのあだ名がスターリンを連想させ嫌う人もおり、「私の名前はヨソフだけどたのむからソソ」って呼ばないでという人もいます。
スターリンのジョージア国内の人気は根強く、彼(や共産主義)に傾倒する人もいる反面、ジョージア人の面汚し!と言わんばかりに嫌悪する人にも出会いました。
スターリン博物館にあった幼少期のスターリンの写真
写真右は父ヴィッサリオン、中央はスターリン、左は母ゲラーゼ

閑話休題。
靴職人の父はアルコール依存症で、酔っては家族に暴力を振るい、スターリンの家庭環境はあまりよいものではなかったようですがそんな父もスターリンが11歳の時に他界します。のち、信仰深い母や教会の勧めもあり神学校に入学します。

学校では、ジョージア語で教育を受けることはできず、ロシア語で教育を受けることが強制されていました。ロシア帝国圏の「少数民族」として抑圧を受けながらも勉強に励み、優秀な成績を収めていたものの在学中にマルクス・レーニン主義に傾倒していきます。
マルクス・レーニン主義でいうところの「革命」はスターリンが抱えていた問題、「少数民族」であるが故の不利益、貧困、また身体的なハンデ(腕がよく動かない)等から開放される一つの道であったと思われました。また、ときはロシア帝政がジョージアの社会に様々な発展をもたらす一方で、貧富の差は拡大し社会的な矛盾、また帝国の少数民族同化政策は民族自決の機運を高めました。
このような社会的な大きな変動に身を置いて、スターリンはますます運動に没頭していき最終的には授業料未納で、卒業できず聖職につくことはなく、運動家として生きるようになります。
スターリンの書いた詩
スターリンの残した詩がジョージアの国語の教科書に掲載され、教育現場で利用されていました
神学校を離れたスターリンは一般的な仕事で食い扶持を稼ぐ傍ら、革命新聞を発行、労働者を組織する等の活動を行い、また非合法な活動にも手を染めていきます。革命活動への資金を得るために銀行強盗なども行い、他の革命家が行うことをためらうような活動にも関わることで、レーニンに認められ、革命グループの中で徐々にその頭角を表していきます。なお、この時期それらの活動が原因で7回逮捕され、シベリアへの流刑となりますが、5回流刑地からの逃亡に成功しています。

スターリン博物館(Stalin Mseum)展示物
運動に傾倒して行く中で、幾度か捕まりシベリアに送られるのですが、7回送られたうちの5回、逃亡に成功しています。

権力の掌握から大粛清

ロシアは第1、第2の革命を経て1922年にソビエト社会主義連邦共和国を成立、レーニンが初代人民委員会議議長となりました。スターリンは、権力への欲を隠しながら、虎視眈々と権力の座をねらいました。腹心で周りを徐々に固めながら、共産党に政治局員となり、じきに人民委員会議議長の座につきます。

しかし、レーニンとスターリンは「ジョージア問題」で意見を異にしました。ロシア共産党中央委員会がジョージアをアゼルバイジャン・アルメニアとともにザカフカース連邦の構成を勧めたのに対して、ジョージア共産党がその独立性を主張していました。スターリンはジョージアの自治化を押していたのに対して、レーニンはジョージアのソビエト連邦加入案を推奨、最終的にはジョージアはソビエト連邦に加入するもこれによって両者の関係は悪化し、スターリンを自らの後継に置きたくはないと遺書に残すものの、それは叶わず。

スターリン死後、従来のボリシェヴィキの理論、全世界で共産主義社会を実現する「世界革命論」を放棄、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を支持して実践することになります。五カ年計画を実施し集団農業化、工業化を推し進め党および国に対する管理を強めていきます。

一方でスターリンは政治的、イデオロギー的反対者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員を策略によって逮捕後追放し、強制収容所への収監と処刑が行われました。
スターリン博物館絵画、ベリエを削除した絵
ベリアを絵から消す(右側白色で塗られた人物)も、白色を使っているためになんとも奇妙


独裁者の肖像

博物館の中には、多くの肖像が展示されています。多くの独裁者がそうであったように自らを神格化、個人崇拝をすすめていきます。
スターリンの立ち姿
腕を後ろに組んで立つおなじみのポーズ

また、様々なプロパガンダ用のポスターも展示されています。子どもを抱く笑顔のスターリン、あるいは人々に親しまれる様子が描かれたポスター等があります。 
プロパガンダ用のポスター
スターリンが人々に親しまれる様子が描かれたプロパガンダ用のポスター
 多くの独裁者がそうであるように、スターリンの時代も写真にはかなりの修正が加えられていました。館内で展示されているスターリンの写真には目尻のシワなくとてもスッキリしていますが、それらは補正後の写真です。ソ連邦内で印刷される写真の全ては、修正された写真が使用されていました。

博物館の展示で唯一、スターリンの修正なしの写真が展示されていましたが、これはアメリカの雑誌に掲載されたスターリンの写真です。この写真にはしっかりと顔に刻まれた皺や顔に負った傷なども映されています。
スターリンの写真
アメリカで発行された雑誌に掲載されたスターリンの写真
ソビエト国内の写真では認められなかった目尻のシワと顔の傷が写っています。
スターリンの左腕には障害あったため、それを隠すために常に手にパイプを持つかあるいは手を後ろに組んで見えないようにしていたと言われています。また、スターリンの身長は160センチ程であるため、それが目立たぬようにしていました。

革命家として、過激な活動に躊躇しなかった若かりし頃のスターリンは、実はかなりのイケメンで、(女性)訪問者の目を惹きます。

若かりし頃のスターリン
若かりし頃のスターリン

 スターリン博物館はどんな所

ゴリの中心地にあり、革命博物館として1951年に建設が始まりましたが、スターリンが存命中には完成することはできませんでした。

展示物は近代化はされておらず、デジタルや映像資料は皆無です。印刷した写真資料やスターリンの誕生日に送られたギフト等が展示物の大半を占めます。また、その説明はジョージア語とロシア語のみの説明文しかないため、いずれかの言語ができない、あるいはロシアとジョージアの歴史を少し学んでおかないと展示物の内容を理解し真に楽しむことはできないでしょう。

しかし、一日の何回か英語でツアーを行っているため、それらに参加することで展示物の内容を理解し、博物館の訪問を楽しむことができるのみならず、またツアーに参加することで、スターリンの生家やスターリンが移動に利用した汽車の内部にも入ることが可能になるため、ツアーに参加することをおすすめします。

ツアーガイドをしている人も色々で、とてもスターリンに傾倒したガイドをする人もいると聞きます。スカーフを巻いた若かりしスターリンの肖像画の前になると興奮のあまり呼吸が荒くなるのだとか(汗)今回担当してくださったガイドさんは、スターリンをバランス良く紹介してくれたと思います。ガイドさんの故に満足の博物館訪問となりました。

ゴリの博物館ぜひ観たい展示

写真はすべてコピーであるため、ウェブサイト等でも閲覧は可能であるほか、スターリンに贈られたギフトはロシアにも置かれているため、ユニークさにかけると思います。しかし、ゴリの博物館ならではの展示の一つはスターリンが幼少期を過ごした家の現物展示と政務の際の国内外移動に利用した車両の展示かと思います。スターリンの家と使用した車両の内部の見学はガイドがいる場合のみ可能になります。

スターリンの家内部は、ジョージアの田舎の一般的な家屋に比べるとやや狭い印象をうけます。一階部分は2部屋と地下室があります。スターリンの父は、地下で靴づくりをしていました。

スターリンの生家
スターリンが幼少期を過ごした家
 スターリンが国内外の移動に使用した汽車両は限られた空間を生かし、ホテルのような内装です。内部にはバスタブがある他、エアコンも完備されていました。
スターリンが利用した汽車
スターリンが利用した汽車

ガイド付きツアーの時間の案内はありません。そのため、2階の入館チケットを渡す場所で、英語のガイドツアーの有無を聞くのが良いと思います。著者が訪れたときにちょうど英語のツアーがあり(すでにはじまっていたのでそこに飛び込む形で)参加することができました。

博物館の中には暖房設備はないため、ヒーターがところどころに設置され、博物館のスタッフが暖をとっていましたが、本当に冷えました。冬場にこの博物館に訪問する際は、ぜひ厚着でお出かけください。

トビリシには、スターリンが活動に利用したと言われる印刷所「スターリン地下印刷所 (Joseph Stalin Underground Printing House)」があります。ゴリまでは遠いけど、トビリシ市内なら・・・という場合は地下印刷所の見学をおすすめします。

ゴリまでの交通

ゴリまではトビリシのディドゥべ(Didube)からバンで3ラリ、約1時間から1時間半ほどでつきます。乗車前にスターリン博物館に行きたいと告げておくと、ドライバーが博物館の前でおろしてくれるでしょう。もちろん、ゴリの最終停車場所まで行くことも可能ですが、博物館まで徒歩で10分から15分程かかります。トビリシに戻る場合も同様です。

ディドゥべ(Didube)のターミナル

ディドゥべのバン停車場所は大通りに沿って細長く広がっており、特に標識もないため、わかりづらいのですが、ゴリに向かうバンの停車場所はメトロのディドべ駅を背にして前進し、それから右手に折れてDidubeの国鉄駅方向に歩いた場所にあります。そこに向かう途上、自家用車でタクシーやバンを運営する運転手がしきりに声を掛けてきますが、それらは呼び込みなので気にせず直進していきます。
ゴリに向かうバンの料金を支払う窓口
Didubeのバスターミナル内。
ゴリに向かうバンの料金を支払う場所「Casher4」が目印


ゴリのバンの停車場所

ゴリでのバンの出発場所はユニークな建物のデザインが印象的な「Gori Public Service Hall」の横。ここにも小さなブースがあり、料金を支払い車に乗り込む形になっています。



ゴリからトビリシに向かうバン
ゴリからトビリシに向かうバン

値段と時刻表
値段と時刻表
写真は見づらくて申し訳ないのですが、これによるとトビリシに向かうバンは一日26便ほどあり、始発が7:00で最終が18:30のようです。

Joseph Stalin Museum案内

所在地:Stalin Ave, Gori
入館料:大人15ラリ、学生10ラリ、小学生1ラリ、6歳以下無料
開館時間:11月から4月まで10:00から17:00、5月から10月まで10:00から18:00
休館日:1月1日、イースター
ウェブサイト:
電話:0370272681

関連ブログ(ジョージア国内の博物館・美術館)

[ジョージア]スターリン博物館(Stalin Mseum)in ゴリ
[ジョージア]スターリン地下印刷所 (Joseph Stalin Underground Printing House)
[ジョージア] ジョージアとロシア(旧ソ連)の関係を学ベる展示(The exhibition of Soviet Occupation)
[ジョージア]トビリシ歴史博物館 (The Tbilisi History Museum)ー人々の生活を見る
[ジョージア]野外民族博物館(The Open Air Museum)ートビリシでジョージア各地の文化に触れる
[ジョージア]アートパレス(Art Palace)でジョージアの舞台・映画芸術に触れる
ジョージア]ジョージア現代アート美術館(Georgian Museum of Fine Arts)
[ジョージア] ナショナル・ギャラリー (The National Gallery) ージョージアの近現代アート
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