アートか生活か―フィリピンアーティストの話

今となってはアートで食べていくことも可能となるほどにフィリピンの中、あるいは東南アジアの中でマーケットとして開拓され、発展しましたが一昔前はアートか生活か?という選択をしなければならなかったといいます。そんな時代のアーティストの話。

フィリピンのアーティスト、レナート・ハブランさんは笑顔が素敵なトンド地区出身、元々はビコール地方出身ですが、両親のだいで働き口を探してかマニラに移民した方。4人の子持ちで、奥様はマーケットリサーチャー。穏やかな人柄を感じますが、マルコス独裁政権の時代は活動家として、ソシオリアリストと呼ばれる芸術家の一人となりました。

マルコス政権への批判が高まりから、ソシオリアリストと呼ばれる芸術家たちは、都市部の貧困や体制への反対を絵画などの芸術作品として発表していきます。消費としてのアートが盛んになった60年代のフィリピンのアートシーンの中ではまた別の流れを作りだしました。

レナートさん曰く、多くの才能あるアーティストの卵がいたのですが、安定を求める人はみな広告制作やアートと関係するが商業の方向へ人が流れていったといいます。そして、真にアートを志す人がたちがその「アート」か「生活」かの選択の中で残っていったといいます。

マルコス政権時代のエピソードとして、1982年に発表した244x152サイズのKagampan(時満ちる)という作品を発表した時のこと。1982年はちょうどアキノ上院議員暗殺の前年。マルコス政権に反対するデモが盛んに行われていた時期でもあります。絵画はデモの様子が描かれております。

その時代に描かれたモチーフとしては珍しいものではなかったと言いますが、雑誌の編集者が独裁政権時の「言論の自由」の試金石として、この絵を雑誌に取り上げたといいます。時のマルコス大統領はカンカンに怒って掲載されていた雑誌を投げつけたとか。その後、法令を作り文章表現だけではなく、絵画などにも政府を批判すると受け取られる描写を禁止したといいます。

激動の時代を生き、それをアートとして表現してきました。


その頃に奥様とも出会っています。レナートさんの作品に感銘を受け、その絵画を購入したいと思うものの、当時学生だった奥様のお小遣いでは購入が難しかったため、友人の紹介でレナートさん本人と交渉して月払いを提案したようです。

その出会いがきっかけとなって、交際がはじまったのだとか。奥様は有名女学院の学生、恐らくお家も裕福だったのだと思われますが、よくご両親が結婚を許したものだと思いました。奥様曰く、「毎回彼の作品を購入するのはたいへんなので、“パッケージ”ごとゲットしたのよ」と結婚当時の話をしてくれました(笑)

「アートを成立させるには独立していなければならない」とレナートさんは言います。マルコス時代、非常に文章や詩の才能がある作家の卵がマルコスのライターとして様々な文章書きに携わっていたといいます。独立し、自ら生計の手段を持つことで自らが目指すアートを追求できると強調し、アーティストである息子さんにもそのように言っているそうです。

また、フィリピンもアート活動が活発化してきましたが、悲しいことにアートへの理解度もそれほど高くはなく、一度絵画の持ち主が亡くなると、地下のじめじめとした場所に絵画を放置したり、冷蔵庫の後ろに置かれていたりと、とにかく絵画の保存状態が悪いトいうレポートがされているそうです。それらの絵画の買い取りは東南アジアのマーケットの中心、シンガポールでされております。アーティストとしては、自らの作品を高く評価し、良い状態で保存してくれるというのが有難いようですが、自分の作品が国外に行ってしまうことは悲しいといいます。

まだまだ、フィリピンでは、アートは消費というカテゴリ―、しかも一部の限られた人(エリート層)にあるのが否めませんが、それでもアートの大衆化を目指して活躍するアーティストたちがいます。ハブランさんの夢はアートキャラバンでルソン島からミンダナオ島までめぐること。ご自身も、貧しいひとたちへの絵画講習を行っているようです。

おきまりのフィリピン観光では物足りないという方は、フィリピンのアートに触れるギャラリーや美術館めぐりも良いのではと思います。

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