フィリピンの英雄ホセ・リサール152回目の誕生日

6月19日、昨日はフィリピンの英雄の一人として数えられる、ホセ・リサールの誕生日でした。2年前が丁度150年目の誕生日にあたり、リサールの生地であるラグーナ州でイベントが催され、テレビでは1998年の制作された映画The Jose Rizalが放映されたのを覚えています。

フォート サンチャゴ公園内の リサール像
 Fort Santiago Park(フォート サンチャゴ公園)内
リサール像

ホセ・リサールは1861年6月19日、ラグーナ州カランバに生まれました。彼の家系はメスティーソといわれる中国とフィリピンの混血の一族であったといいます。医師、作家、画家であり、複数の言語に堪能で、学問に秀でてアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ)、サントトーマス大学でまなび、さらにスペインに留学し、マドリード・コンプルテンセ大学で医学の勉強、医師免許を取得、さらにハイデルベルク大学とパリ大学で医学の勉強を続けました。

ホセ・リサールは『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』[ラテン語で『我に触れるな』]と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』[スペイン語で『反逆者』]という2つのスペイン語の著作で有名です。スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めたことで知られています。


1887年出版の『ノリ・メ・タンヘレ』では植民地政府とカトリック聖職者の腐敗の実態を克明に書き出し、同時に支配者に擦り寄る有産階級などを皮肉いっぱいに書き出し、植民政府の批判のみならずフィリピン人に自己改革の余地があることを訴えました。ただ、ここでは革命への参加は留保する考えを示しました。 

1891年に続編として発行された『エル・フィリブステリスモ』では、一歩進んでフィリピン社会をよくするためにはスペインから独立しなければならない、植民地のまま有り続けることはフィリピンの国民性を破壊させることにほかならないと書き、出版後フィリピンに戻ったリサールは「フィリピン民族同盟」を結成しました。結成後まもなく、スペイン政府によって北部ミンダナオ、ダピタンに流刑となり、1896年12月30日に、革命を扇動した罪でマニラで処刑されました。リサールが処刑された場所は「リサール公園(またはルネタ公園)」と呼ばれ衛兵に24時間守られている記念碑があります。

日比谷公園にあるホセリサール像
ホセリサールは、「フィリピン人」とは何か、フィリピンの国家とは何かを問いかけた知識人でありました。リサールの死後117年経つ今、命を掛けて国家と国民を問うた人物が想定した社会からどれくらいの距離があるのか、汚職、貧困に苦しむ人の多さをみてリサールが生きていたら、どのような書籍が彼によって出版され、現状を描写するのだろうか、考えてしまいました。

リサールは(当時26歳)1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在しているようです。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されています。リサールには通称おせい(臼井勢似子)さんという日本人女性との恋愛物語があります。Fort Santiago Park(フォート サンチャゴ公園)の内にあるリサールの展示にもおせいさんの肖像画が飾られています。日本滞在中彼女と過ごした日々は思い出深かったとか。。。
 ちなみに、リサールは小柄であったことがリサール像や展示されている衣類から知ることができますが、頭もよくイケメンのリサールは女性にかなりもてたようです。

 フィリピンの革命の機運を作ったと言われる人物であり、英雄であることはかわりませんが、リサールの影響を受けたボニファシオこそが革命での真の英雄とする歴史解釈があります。
 アンドレス・ボニファシオは、リサールとは対照的に貧しく家柄も低い家庭に生まれ、マニラの保険会社の事務員として働き、苦学し、自ら革命理論を打ち立てたそうです。リサールの組織した革命団体に所属するものの、リサールの流刑とともに解体され、のちにKKKのマークで知られる、通称カティプナン「Kataastaasang Kagalanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan 」(母なる大地の息子たちと娘たちによるもっとも高貴にして敬愛されるべき会)を組織して革命を続行します。独立後のフィリピン社会の平等を目指すボニファシオと高い社会的地位と家柄を誇るグループがKKK内部で対立し、後に裏切りによって処刑という憂き目にあいます。高い家柄も、社会的地位もないところから這い上がったボニファシオが搾取に苦しむ多くの農民層の声を代弁していたと見ても良いと思いますが、処刑という形で歴史の表舞台から姿を消します。

 何故、ホセ・リサールが前面に押し出されることとなったのか?それはその時代からのアメリカの介入と言われています。1898年フィリピン国内は、革命の機運が高まり各地で武力による抵抗が起こり独立宣言をするものの、時は丁度米西戦争でアメリカは2,000万ドルでスペインからフィリピンを獲得し、アメリカが介入することになり頓挫します。当時のアメリカの立場は、フィリピンの解放のためなら武力闘争も辞さないボニファシオよりも、武力闘争に対して否定的であったホセ・リサールの立場を好ましいものとします。また、ホセ・リサールの処刑がまさにイエス・キリストと重なって見え、ある種神聖化されたようにも思われます。 


リサールは、海外で悠々自適にとどまることも可能だったのかもしれませんが、結局自国に戻りました。暗殺されたニノイアキノ上院議員も同じく、アメリカで家族仲良く亡命生活を送ることも可能だったと思いますが、彼らは結局国に戻っています。自分の生涯をかけて成し遂げたい何かがありました。彼らにとっては、命をかけるに値する祖国だったのでしょう。
 後のフィリピン社会に多くの影響を残したリサール。35歳という短い生涯で多くのことを成したリサールに思いを馳せました。

 最後に長いですが、リサールが処刑される前日に妹に託したという詩(遺書)は以下
Fort Santiago Park(フォート サンチャゴ公園)で見ることができます。
「ミ・ウルティモ・アディオス」(Mi Ultimo Adios)
最後の訣別 
ホセ・リサール/1896
翻訳 加瀬 正治郎
さようなら なつかしい祖国よ 大陽に抱かれた地よ
夏の海の真珠 失われたエデンの園よ!
いまわたしは喜んできみに捧げよう この衰えた生命の最もよいものを
いや 生命そのものをささげよう
さらに栄光と生気と祝福が待っているなら 何を惜しむことがあろう
戦場にあって はげしい闘いのさなかにあって
人々は生命をささげたのだ ためらい まどうこともなく
そこがいかなるところでも ―糸杉 月桂樹 白百合の生うるところ
断頭台も広野原も 格闘も殉教の苦しみも
それらはみな同じもの われらの家と祖国にささげられたもの
暁の光をのぞみ見て 私はいま死んでゆくのだ
ほのぐらい夜をつきぬけ 昼の光へ導くために
紅の色が乏しければ私の生命の血で染めよ
なつかしい祖国のために私の血はみな注ぎつくそう
黎明の光を鮮血の色に染めるため
私は夢みた はじめて生命のひらかれたとき
私は夢みた 若き日の希望に胸の高鳴ったとき
おお 東の海の宝石よ きみの晴れやかな顔をみる日を
憂愁と悲しみよりとき放たれて
きみの顔にかげはなく きみの眼に涙のない日を
わが生涯の夢 わたしの中の燃ゆるねがいよ
すべて来れ! いま魂はとび去ろうとして叫ぶのだ
すべて来れ! そしてきみたちが消えゆくことは美しい
きみたちは消えてゆくことに憧れているにちがいない
そしてきみたちの永遠の永い夜の胸にいだかれてねむれ
いつの日か わたしの墓の上の草むらに
きみが一輪の花の咲いているのを見つけたら
唇におしあて私の魂に口づけしてくれ
地下の冷い私の額は
きみのやさしさ きみの暖かい呼吸の力を感じよう
柔かな月の光を私の上に注がしめよ
暁のきらめく光を私の上に輝かしめよ
悲しい風の嘆きのうたを私の上にうたわしめよ
私の墓の十字架の上に一羽の小鳥のくるのを見たら
平和のうたをうたわしめよ
大陽をして空に水蒸気を立上らしめよ
そして清らかな天に向かって私の反抗を立上らしめよ
だれか心やさしい人あらば 私の非業の運命を嘆いてくれ
そしてしずかな夕ぐれに祈りをあげてくれ
おお わが祖国よ 私が神に抱かれて休らうことのできるよう
不運の死をとげたすべての人のために祈ってくれ
かぎりない苦難をうけたあらゆる人のために祈ってくれ
不遇の悲しみに泣いた母たちのために
夫を失い 妻を失った人たちのために 拷問の試練にあう囚人のために
そしてまた救いをうるであろうきみたちのために
暗い夜のとばりが墓苑をつつむころ
死者のみひとりめざめているとき
私の休息 ふかい神秘を敗らないでくれ
そうすればきみはきっと悲しいうたの反響をきくだろう
それは私なのだ おお わが祖国よ きみにささげる私の歌なのだ
十字架も墓標もきえ去って
私の墓も忘れられるとき
鋤でならし 掘り返すにまかせよ
私の骨はふきちらされて消え去るまえに
きみの地上にしきつめられるだろう
そして忘却は 私を気にもとめないだろう
きみの谷間と平野の上を私がすぎゆくとき
きみの土地と大気を鼓動させ 清めながら
色彩と光 うたとなげきとともに私はゆく
私の抱いている忠誠をいつもくり返しながら
わが憧れの祖国よ おまえの悲しみが私の心を悲しませるのだ
愛するフィリピンよ きけ 私の最後の別れの挨拶を!
私はすべてをきみにささげる 両親も血族も友人も
私は圧制者の前にひざまづく奴隷のいないところにゆくのだ
そこでは信仰の名によって人を殺すこともなく 神がつねに高きところに
私の心から引きはなされたきみたち皆よ さようなら
家から引きはなされた幼なじみの友たちよ
私は感謝しよう ものうい日々から免れたことを!
さようなら 私の道をてらしてくれたやさしいひとよ
すべての愛するものたちよ さようなら! 死の休息が待っているのだ!

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