フィリピンの英雄、ホセ・リサール160回目の誕生日

6月19日、フィリピンの英雄の一人、ホセ・リサールの160回目の誕生日です。多くの日本人には知られていませんが、フィリピンの独立の機運を作った19世紀末に生きたフィリピンの知識人です。35歳の若さで、スペイン植民政府により処刑されてしまいますが、彼が処刑された12月30日はリザール・デー(Rizal Day)とされ、国民の祝日として現在も祝われ、国民が最もなじみがある、1ペソと5ペソ硬貨に描かれています。日本ではあまり知られていませんが、日本の日比谷公園にその銅像があります。ホセ・リサールフィリピンにどんな影響を与えた人物かについてまとめました。

Facebook 160th Birth Anniversary of Dr. Jose Rizal
ホセ・リサール160回目の誕生日

ホセ・リサールは1861年6月19日、マニラから南方に約50キロの町、ラグーナ州カランバに生まれました。彼の家系はメスティーソといわれる中国とフィリピンの混血の一族でした。医師、作家、画家であり、複数の言語(7か国語)に堪能で、学問に秀でてアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ)、サントトーマス大学でまなび、さらにスペインに留学し、マドリード・コンプルテンセ大学で医学の勉強、医師免許を取得、ドイツのハイデルベルク大学とフランス、パリ大学で医学の勉強を続けました。

ホセ・リサールは『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』[ラテン語で『我に触れるな』]と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』[スペイン語で『反逆者』]という2つのスペイン語の著作で有名です。スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めたことで知られています。

『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブステリスモ』とは

1887年出版の『ノリ・メ・タンヘレ』は通称、「ノリ」と呼ばれ、植民地政府とカトリック聖職者の腐敗の実態を克明に書き出し、同時に支配者に擦り寄る有産階級などを皮肉いっぱいに書き出し、植民政府の批判のみならずフィリピン人に自己改革の余地があることを訴えました。ただ、ここでは革命への参加は留保する考えを示しました。 

1891年に続編として発行された『エル・フィリブステリスモ』では、一歩進んでフィリピン社会をよくするためにはスペインから独立しなければならない、植民地のまま有り続けることはフィリピンの国民性を破壊させることにほかならないと書き、出版後フィリピンに戻ったリサールは「フィリピン民族同盟」を結成しました。
フォート サンチャゴ公園内の リサール像
 Fort Santiago Park(フォート サンチャゴ公園)内
リサール像

結成後まもなく、スペイン政府によって北部ミンダナオ、ダピタンに流刑となり、1896年12月30日に、革命を扇動した罪でマニラで処刑されました。リサールが処刑された場所は「リサール公園(またはルネタ公園)」と呼ばれ衛兵に24時間守られている記念碑があります。

ホセ・リサールは、「フィリピン人」とは何か、フィリピンの国家とは何かを問いかけた知識人でありました。リサールの死後160年経つ今、命を掛けて国家と国民を問うた人物が想定した社会からどれくらいの距離があるのか、汚職、貧困に苦しむ人の多さをみてリサールが生きていたら、どのような書籍が彼によって出版され、現状を描写するのだろうか、考えてしまいました。

ホセ・リサールがこの21世紀に生きていたら

リサール研究の第一人者、オカンポ教授は、CNNフィリピンのインタビューで、「リサールはコミュニケ―ターだからきっとTwitterなどのSNSを使ったと思います」という回答に納得しました。
おそらく、現ドゥテルテ政権下の「麻薬撲滅戦争」についても、エスプリの効いた投稿をして、多くのフォロワーがおり、リツイートする人がいるのだろうなぁと想像に難くありません。それと同時に、影響力が強いので、誰かに狙われたりするのだろうなぁと思ったりもしました。

日本滞在

リサールは(当時26歳)1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在しているようです。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されています。リサールには通称おせい(臼井勢似子)さんという日本人女性という親しい女性がいました。長期滞在する場所に彼女ができたというリサールの逸話の一つですが、おせいさんは、リサール滞在時の通訳であり、彼に文化や日本の風習などを教えていたといわれ、実際に恋愛に発展したのかはわかりませんが、リサールはおせいにさんに好意をよせていたのだとか。改装前のFort Santiago Park(フォート サンチャゴ公園)の内にあるリサールの展示にもおせいさんの肖像画が飾られていました。

日比谷公園にあるホセ・リサール像(Jose Rizal)
ヨーロッパに学び、日本にも一か月ほど滞在しているので、日比谷公園には、彼のブロンズ像があります(ご興味のある方は、日比谷公園を訪問した時に探してみてください。)


リサールの展示されている衣類から知ることができますが、身長は低く、150㎝ほどであったようです。100年以上も前であることから、身長が我々の世代よりも低いのですが、100年前のフィリピン人男性の平均身長が160㎝ほどといわれているため、平均よりも低かったようですが、頭がよく、コミュニケーション能力に優れたリサールは女性にかなりもてたようです。

真の革命期の英雄は誰か?

フィリピンの革命の機運を作ったと言われる人物であり、英雄であることはかわりませんが、リサールの影響を受けたボニファシオこそが革命での真の英雄とする歴史解釈があります。
アンドレス・ボニファシオは、リサールとは対照的に貧しく家柄も低い家庭に生まれ、マニラの保険会社の事務員として働き、苦学し、自ら革命理論を打ち立てたそうです。リサールの組織した革命団体に所属するものの、リサールの流刑とともに解体され、のちにKKKのマークで知られる、通称カティプナン「Kataastaasang Kagalanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan 」(母なる大地の息子たちと娘たちによるもっとも高貴にして敬愛されるべき会)を組織して革命を続行します。独立後のフィリピン社会の平等を目指すボニファシオと高い社会的地位と家柄を誇るグループがKKK内部で対立し、後に裏切りによって処刑という憂き目にあいます。高い家柄も、社会的地位もないところから這い上がったボニファシオが搾取に苦しむ多くの農民層の声を代弁していたと見ても良いと思いますが、処刑という形で歴史の表舞台から姿を消します。

歴史家たちは、リサールを英雄とするかという点において、異なる見解をしめしています。とある歴史家は、アンドレス・ボニファシオがリサールに代わって国民的英雄になるのではなく、リサールと並んで称えられるべきだとする見解、あるいは、ボニファシオの革命はリサールの著作によってもたらされた結果であり、ボニファシオのリボルバー(暴力闘争)はすぐに結果を出したが、リサールのペンはより永続的な成果を生み出したと主張しています。 
一方、ほとんどの歴史家は、タガログ語やセブアノ語は大衆の言語でしたが、リサールが裕福なエリート階級の一員であり、主にエリート言語(スペイン語)で執筆していたため、大多数のフィリピン人は生前のリサールを知らなかったという点では一致しています。

リサールは、海外で悠々自適にとどまることも可能だったのかもしれませんが、結局自国に戻りました。暗殺されたニノイアキノ上院議員も同じく、アメリカで家族仲良く亡命生活を送ることも可能だったと思いますが、彼らは結局国に戻っています。
自分の生涯をかけて成し遂げたい何かがありました。彼らにとっては、命をかけるに値する祖国だったのでしょう。後のフィリピン社会に多くの影響を残したリサール。35歳という短い生涯で多くのことを成したリサールに思いを馳せました。

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