ブログ「フィリピンの滞在を楽しむには(5) :マニラ一日観光ご提案その1」では、タイトルの通り一日のプランをご提案しましたが、中にはトランジットでマニラを訪問という人もおり、「半日で終わるツアーはないのか」声が上がりましたので、初めてフィリピンを訪問した観光者向け、「半日でフィリピンの近代史を学ぶツアー」をご提案します。
フィリピン近代史を学ぶイントラムロス半日観光おススメプラン
イントラムロスの位置するのは、マニラ市、マニラ湾沿いの地区です。中華街やブラックナザレ像(黒いキリスト像)で有名なキアポ教会、そしてフィリピンの距離計測の中心となっているリザール像がある地域と隣接しており、歴史地域の中核をなしています。
また、かつて「神の子」というドキュメンタリーで知られるようになった「スモーキーマウンテン※」のあった地域からそれほど遠くはありません。※自然発火したごみの山から燻る煙が昇るさまから名付けられました。「[ドキュメンタリー] フィリピン関係者必見?! ドキュメンタリーリスト2014年版」に紹介したSlumなどからその様子を知ることができます。
敷地面積は67ヘクタールほど。この空間にはフィリピンの中世から近代史の情報が詰まっているので、このブログでは、この行程を楽しむため、背景について少々説明します。
イントラムロス、スペイン語で「壁の内側で」を意味し、マニラの騒然とした街に突如出現する、約6〜7mの高さの壁に囲まれたスペイン時代に作られた要塞です。城壁の上には城砦として機能していた時代から残されている大砲が今でも配置されています。スペインの植民時代に築かれ、アメリカによりその姿を変え、第二次大戦中には破壊され、再建されて、現在に至っています。
スペイン植民地前のイントラムロス
ルソン島に初めてヨーロッパ人が到着する前、14世紀頃はマジャパヒト帝国の一部でした。その後、1485年頃にブルネイのスルタンにより侵略、ブルネイ帝国の一部となりました。
現在のイントラムロスの位置する場所は、ブルネイのスルタンに忠誠を誓ったイスラム教徒のラジャ・スレイマン(Rajah Sulayman)の統治下にありました。このような経緯があり、フィリピンがスペインによって植民地化される前は、パッシグ川のほとりは、イスラム教徒たちが住んでおりました。
スペイン統治下のフィリピンとイントラムロス
1564年、ミゲル・ロぺス・レガスピ(Miguel Lópezde Legazpi)が率いるスペインの船はニュースペイン(現在メキシコ)から出航し、1565年2月13日にセブ島に到着し、フィリピンにおける最初のスペイン植民地を確立しました。
レガスピは、原住民からマニラの豊かな資源について聞いた後、マルティン・デ・ゴイティとフアン・デ・サルセドの中尉の二人をルソン島に派遣しました。1570年、スペイン人らはルソン島に到着します。
イスラム教徒の原住民とスペイン人の間で土地と居住地の巡って戦いがあり、数ヶ月の戦いの後、原住民は敗北し、スペイン人はラジャ・スレイマン3世(Rajah Sulaiman III)らと平和協定を結び、以降マニラはスペインの植民地となりました。
マニラを支配したスペインはその後、マニラをフィリピン植民地支配の拠点とします。イントラムロスの建造は1573年に始まり1606年に完成されました。完成後は、スペインのフィリピン統治の政治・宗教・軍事の中心地として機能しました。今日まで残る教会や要塞、建物は用途が変わったものがありますが、スペイン当地時代の形を残しております。
その後、スペインの統治は約300年ほど続きます。スペイン統治下末期には、反植民地運動が盛り上がります。フィリピン各地でゲリラや反植民地運動が展開されました。イントラムロスはその舞台の一つとなりました。植民地政府の腐敗を痛烈に批判した書「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ )」の著者、ホセ・リサールは植民地政府に捕えられ、イントラムロス内に収監され、その処刑の時を待ちました。
アメリカ統治下
スペイン統治もその帝国の弱体化と共に終わりを告げます。1898年スペインは米西戦争でアメリカに敗れ、スペインは2000万ドルでパリ条約の条項の一部としてフィリピンと他のいくつかの領土を米国に割譲しました。
アメリカはフィリピンの独立を援助する名目で反スペイン植民地運動の指導者の一人・エミリオ・アギナルド将軍に協力要請し、フィリピン人たちはマニラの戦い (1898年)(7月25日 - 8月13日)を戦ったものの、パリ条約において、アメリカ合衆国はフィリピンを購入し、結局はフィリピン人の望む独立を得ることができませんでした。
1899年1月1日にエミリオ・アギナルドが初代大統領に就任し、1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国されます。フィリピンとアメリカの緊張は高まり、米比戦争に展開しました(1899~1902年)。
アメリカの統治時代、イントラムロスは様変わりしました。1903年、聖ドミンゴ門からアルマセネス門までが取り払われ、パシグ川の南岸の埠頭が改善されました。どかされた石は市内の建設に活用されました。イントラムロスを包囲する二重堀は、不衛生的であるとみなされ、泥で埋め立てられ、現在はその多くがゴルフコースとなっています。周辺地域には学校なども建設されました。この時期にフィリピンの老舗5つ星ホテル、マニラホテルも建設されました。マニラホテルはマッカーサー将軍が宿泊した場所でもあります。
日本の統治下
1941年12月、日本軍が侵攻で、フィリピンからアメリカは撤退、日本による占領がはじまり、それは1945年のマニラ解放まで続きます。
1945年アメリカ軍が上陸し、その後マニラまでおよび、マニラ市街戦となりました。日本軍は押し戻され、最終的にイントラムロス地区に退却しました。この時、イントラムロスに砲撃し、16,665人以上の日本人が死亡しました。イントラムロスの8つの門のうち2つは、アメリカの戦車によって損害を受けました。爆撃で壁の40%が失われました。大戦終了時には、損傷した聖オーガスティン教会だけが残りました。1945年2月3日から3月3日で10万人以上のフィリピン人が亡くなったと言われています。
「マニラ・イントラムロス(Intramuros)半日ツアー(1):イントラムロス略史」フィリピン近代史を学ぶイントラムロス半日観光おススメプラン
9:00 | サンチャゴ要塞 |
※バス・タクシーのドロップオフ・ポイントとなる | |
★観光ポイント | |
(1)イントラムロスの成り立ちを学ぶ(ミニ・シアターで10分程度のイントラムロス全体の紹介ビデオがある*英語のみ) | |
(2)リサール博物館でリサ―ルの歩みを通じて、植民政府末期から盛り上がった反スペイン植民運動について学ぶ | |
(3)第二次世界大戦中の跡を見つける マニラ・イントラムロス(Intramuros)半日ツアー(2):フィリピンの近代史の詰まったサンチャゴ要塞へGO! を参照 |
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11:00 | マニラ大聖堂へ移動(要塞から徒歩で約5分の距離) |
聖堂内を見学※ | |
★観光ポイント | |
(1)建造物の特徴:聖堂内のステンドグラス、パイプオルガン、イコン | |
(2)内部に入った人々の様子 | |
フィリピンの宗教・広範な文化としてのカトリックについてふれる | |
11:40 聖イザベル広場へ移動(聖堂から徒歩で約3分の距離) | |
★観光ポイント | |
(1)マニラ市街戦の記念碑を見学 | |
碑文に何が書かれているか、マニラ市街戦について日本の歴史ではどのように記載されているのか? | |
11:50 | 聖オーガスティン教会へ移動(広場から徒歩で約6分の距離) |
※バス・タクシーのピックアップ・ポイントとなる | |
12:00 | 移動 |
※マニラ大聖堂、聖オーガスティン教会は、ミサ、結婚式などを行っている場合は教会内に観光客として入ることはできません。 |
半日ツアー路程(サンチャゴ要塞→マニラ大聖堂→聖イザベル広場→聖オーガスティン教会) |
イントラムロス(Intramuros)とは?
イントラムロスの場所 |
イントラムロスの位置するのは、マニラ市、マニラ湾沿いの地区です。中華街やブラックナザレ像(黒いキリスト像)で有名なキアポ教会、そしてフィリピンの距離計測の中心となっているリザール像がある地域と隣接しており、歴史地域の中核をなしています。
イントラムロス、スペイン語で「壁の内側で」を意味し、マニラの騒然とした街に突如出現する、約6〜7mの高さの壁に囲まれたスペイン時代に作られた要塞です。城壁の上には城砦として機能していた時代から残されている大砲が今でも配置されています。スペインの植民時代に築かれ、アメリカによりその姿を変え、第二次大戦中には破壊され、再建されて、現在に至っています。
大砲 |
イントラムロス略史
イントラムロスはその戦略的な立地の故、中国、インド、ボルネオ、インドネシアからの商人との取引の場所、あるいは軍事・戦略的要所となり、過去数百年、様々な人物がこの地に降り立ち、占領し、この場所を利用してきました。スペイン植民地前のイントラムロス
ルソン島に初めてヨーロッパ人が到着する前、14世紀頃はマジャパヒト帝国の一部でした。その後、1485年頃にブルネイのスルタンにより侵略、ブルネイ帝国の一部となりました。
現在のイントラムロスの位置する場所は、ブルネイのスルタンに忠誠を誓ったイスラム教徒のラジャ・スレイマン(Rajah Sulayman)の統治下にありました。このような経緯があり、フィリピンがスペインによって植民地化される前は、パッシグ川のほとりは、イスラム教徒たちが住んでおりました。
スペイン統治下のフィリピンとイントラムロス
1564年、ミゲル・ロぺス・レガスピ(Miguel Lópezde Legazpi)が率いるスペインの船はニュースペイン(現在メキシコ)から出航し、1565年2月13日にセブ島に到着し、フィリピンにおける最初のスペイン植民地を確立しました。
イントラムロス入管隣にあるPlaza Mexico
1564年、ミゲル・ロぺス・レガスピ(Miguel Lópezde Legazpi)が率いるスペインの船はニュースペイン(現在メキシコ)から出航し400年を記念して作られた碑 |
イスラム教徒の原住民とスペイン人の間で土地と居住地の巡って戦いがあり、数ヶ月の戦いの後、原住民は敗北し、スペイン人はラジャ・スレイマン3世(Rajah Sulaiman III)らと平和協定を結び、以降マニラはスペインの植民地となりました。
マニラを支配したスペインはその後、マニラをフィリピン植民地支配の拠点とします。イントラムロスの建造は1573年に始まり1606年に完成されました。完成後は、スペインのフィリピン統治の政治・宗教・軍事の中心地として機能しました。今日まで残る教会や要塞、建物は用途が変わったものがありますが、スペイン当地時代の形を残しております。
フェリペ2世の像 |
ホセ・リサール |
アメリカ統治下
スペイン統治もその帝国の弱体化と共に終わりを告げます。1898年スペインは米西戦争でアメリカに敗れ、スペインは2000万ドルでパリ条約の条項の一部としてフィリピンと他のいくつかの領土を米国に割譲しました。
アメリカはフィリピンの独立を援助する名目で反スペイン植民地運動の指導者の一人・エミリオ・アギナルド将軍に協力要請し、フィリピン人たちはマニラの戦い (1898年)(7月25日 - 8月13日)を戦ったものの、パリ条約において、アメリカ合衆国はフィリピンを購入し、結局はフィリピン人の望む独立を得ることができませんでした。
1899年1月1日にエミリオ・アギナルドが初代大統領に就任し、1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国されます。フィリピンとアメリカの緊張は高まり、米比戦争に展開しました(1899~1902年)。
晩年のエミリオ・アギナルドの肖像 フィリピン国立美術館 |
日本の統治下
1941年12月、日本軍が侵攻で、フィリピンからアメリカは撤退、日本による占領がはじまり、それは1945年のマニラ解放まで続きます。
日本帝国軍のフィリピン市民への暴力が描かれた作品 フィリピン国立美術館貯蔵 |
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