マニラの観光どこに行く?マニラ・イントラムロス(Intramuros)半日ツアー(2):フィリピンの近代史の詰まったサンチャゴ要塞へGO!

イントラムロス内にはいくつも非常に興味深い博物館や施設があり、どれもおススメですが、一番のおススメはフィリピンの近代史の凝縮されているサンチャゴ要塞です。
サンチャゴ要塞 Fort Santiago
サンチャゴ要塞ファサード

サンチャゴ要塞

独断ながら、簡単にサンチャゴ要塞観光のポイントを3つにまとめました。
(1)イントラムロスの略史
(ミニ・シアターで10分程度のイントラムロス全体の紹介ビデオがある*英語のみ)
(2)リサールと反植民地運動
リサール博物館でリサ―ルの歩みを通じて、植民政府末期から盛り上がった反スペイン植民運動について学ぶ
(3)第二次世界大戦中の跡を見つける

内部の周り方は、ミニシアターでのイントラムロス紹介ビデオ鑑賞、サンチャゴ要塞内部、リサール記念館、地下牢(The Dungeons)、モリオンズ広場がよいと思われます。

サンチャゴ要塞内マップ
サンチャゴ要塞内マップ


イントラムロス全体を学ぶ

入り口から入って左手のお土産店のある並びにミニシアターがあります。そこで、約10分ほどのイントラムロスとサンチャゴ要塞紹介のビデオを鑑賞することができます(無料)。上映時間は、そのミニシアターの前に案内があるので、入場後に確認するのがよいでしょう。
サンチャゴ要塞 入り口から左手に見える建物
入り口から左手に見える建物
お土産店などもある

ミニシアターで上映するビデオは、動画というよりは写真のスライドであり、英語で日本語の字幕はもちろんありませんが、イントラムロスとサンチャゴ要塞の概要をつかむことができます。

略史はブログ「マニラ・イントラムロス(Intramuros)半日ツアー(1):イントラムロス略史」にて説明しています。

サンチャゴ要塞入り口、写真左手がチケット売り場
サンチャゴ要塞入り口、写真左手がチケット売り場


サンチャゴ要塞内部

ビデオ鑑賞後は、公園を右手に、前方に進んでいくとサンチャゴ要塞のファサードが見えてきます。ファザードにはカトリックの守護聖人である聖ヤコブ(スペイン語でサンチャゴSantiago)の彫刻が施されております。要塞の名前は、聖ヤコブ(サンチャゴ)によるもの。

近代においてこの場所は、防衛の要でした。全周は約620m、三角形のこの要塞は1571年から150年の歳月をかけて建造され、スペインの統治後イギリスやアメリカの軍司令部、太平洋戦争中には日本憲兵隊の本部が置かれた場所でもあります。第二次大戦で破壊されましたが、その後修復され現在に至っています。

また、フィリピンの国民的英雄、ホセ・リサールは処刑されるまで幽閉されていたのもこの場所でした。そのため、要塞内にはリサール記念館があります。

 リサール記念館(Rizal Shirine)と反植民地運動

ホセ・リサールとは?
リサールの博物館(Rizal Shirine)があります。しかし、リサールとは一体だれか?フィリピン史を知らないという外国人には一体どういう人物であるのか知られていません。しかし、フィリピンの反植民地運動を語る際にはこの人物を抜きには語れません。また、イントラムロスを訪問する際、この人物を知らないと、面白さ半減です。
ホセ・リサール肖像画
ホセ・リサール肖像画
ホセ・リサールこと、ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ (Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)は、医師、著作家、画家、学者でした。1861年6月19日 に華僑の家に生まれ、1896年12月30日に反植民地運動を先導した罪で処刑されるまでの35歳の短い人生をいきました。フィリピンの1ペソ硬貨の肖像にもなっています。

留学~帰国~2度目の留学~帰国
ローカルのエリートとして生き、宗主国スペインマドリードに留学し、勉学に励むほか、スペイン語のほか、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、中国語、英語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語などの諸言語を習得。26歳でフィリピンに帰国し、医師として働くが、執筆した著作「ノリ・メ・タンヘレ」が反植民地的であるとして、問題になり、それを機にリサールはまた海外に旅立ちます。

再度ヨーロッパに向けて旅立ちますが、日本とアメリカを経由しました。1888年2月28日にリサールは横浜に到着、駐日スペイン公使館邸や日比谷の東京ホテルに宿泊し、2か月間滞在しました。滞在中、「おせいさん」こと臼井勢似子さんと懇意になった話は有名です。リサールの訪問を記念して、日比谷公園にホセリサールの像があります。
ホセ・リサール像 日比谷公園
ホセ・リサール像 日比谷公園


日本からアメリカのサンフランシスコを通過して、ロンドンに到着、その後ヨーロッパでスペイン人による植民地化以前のフィリピン史を研究。1889年2月15日、デル・ピラール、ロペス・ハエナと共に、半月刊のスペイン語新聞「ラ・ソリダリダッド」(スペイン語:団結)の創刊に加わり、「プロパガンダ運動」を行い、1891年9月18日にベルギーで二作目の小説「エル・フィリブステリスモ」を出版しました。

書籍の出版後、リサールは1891年10月18日にフィリピンに帰国しようとするものの、リサールの反植民地主義を危険視した官憲のために帰国がかなわず、11月19日に香港に到着。望郷の念は止まず、1892年6月15日にフィリピンに帰国。

帰国後、リサールは「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を組織。同盟は急進的な革命を望んでいなかったのですが、植民地政府当局はこの運動をも危険視し、リサールは逮捕され、7月7日にミンダナオ島北西部のダピタンへ流刑、医師として働き、流刑地で数年過ごすことになりました。

1896年7月、流刑を終えたリサールは、任地のスペイン領キューバへと旅立っていきました。リサールがキューバへの旅の途上、フィリピンでは秘密結社カティプナンによる独立闘争(1896年革命)が起こりました。かティプナンの武力闘争は、ホセリサールの著書に着想を得たと言われていたため、スペイン官憲に逮捕、スペインからフィリピンの首都マニラに送還されます。送還後、軍法会議にかけられ、12月26日に銃殺刑が宣告されました。
獄中のホセ・リサール
獄中のホセ・リサール
処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩「ミ・ウルティモ・アディオス(最後の訣別)(Mi Ultimo Adios)は、リサールの祖国への熱い思いを伝えています。
全文はブログ「フィリピンの英雄ホセ・リサール152回目の誕生日」に掲載しています。
12月30日、フィリピン民衆が見守る中、現リサール公園で銃殺されました。
獄中のホセ・リサールと処刑場までの足跡
獄中のホセ・リサールと処刑場までの足跡
要塞内に、独房から処刑場までの文字通り足どりが記されております。要塞からリサール公園までは約1.5km。どういう気持ちで歩いたのかを想像します。
リサール・銃殺刑の様子(リサール公園)
リサール・銃殺刑の様子(リサール公園)

記念館ではリザールの歩み、書いた作品・衣類・彼の残した言葉などを見ることができます。

ホセ・リサール像
Rizal Shirine(リサールの博物館)前のリサール像

戦争の爪後

敷地内には、大砲や砲弾があります。また、建物には銃痕が残っており、戦闘の激しさ今に伝えています。

また、サンチャゴ要塞は第二次世界大戦中は日本軍が占領しており、その間に要塞の水牢が使われ多くの人がスパイの容疑や諸々の理由で拷問、処刑され、慰霊碑が建ってます。
サンチャゴ要塞内の慰霊碑
サンチャゴ要塞内の慰霊碑
大戦末期、サンチャゴ要塞に収容されている3,000人以上の男性のうち、数人のみが生き延びることができ、多くは虐殺されました。

米軍が1945年2月23日と24日にサンティアゴ要塞を調査したところ、総銃弾、砲撃、飢餓によって死亡したと思われる死体が400体見つかりました。また、牢獄の中で手を背中に結びつけられた遺体が50体、3つの腐乱した遺体、積み重なった58人の結核患者の死体なども見つかりました。
参照ウェブサイト
Massacres in the Battle of Manila
http://malacanang.gov.ph/75083-briefer-massacres-in-the-battle-of-manila

関連ブログ

「マニラ・イントラムロス(Intramuros)半日ツアー(2):フィリピンの近代史の詰まったサンチャゴ要塞へGO!」

スポンサーリンク

スポンサーリンク

0 件のコメント :

コメントを投稿

Subscribe