[ジョージア] ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)in トビリシ

ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner:1843年6月9日 - 1914年6月21日)が100年以上前のジョージアにて生活していました。1876年から1884年にかけて滞在、ジョージア西部(クタイシやズグディディ)で6年、トビリシで2年過ごしていたとのことです。

ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)とは?

改めて、ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)とはだれか?オーストリア出身の小説家、ジャーナリスト、平和活動家です。46歳の時に書いた小説「武器を捨てよ」で知られるようになり、また平和活動を積極的行い、1905年には、女性では初めてノーベル賞を受賞しました。オーストリアの2ユーロコインの顔は彼女です。
ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)
ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)、2ユーロコイン



なぜジョージアへ?

1873年からズットナー男爵家の四姉妹の家庭教師を務めた事で知り合った同家の御曹司アルトゥール・グンダッカー・フォン・ズットナーから結婚を申し込まれます。しかしベルタはアルトゥールより7才年上。ズットナー家から強い反対を受け、家庭教師の職も最終的には辞すことになりました。

1876年に彼女はアルフレッド・ノーベルが出したパリの邸宅での秘書兼家政婦募集の公告に応募。それを前後して、33歳に1876年6月12日にアルトゥールと秘密裏に結婚。

ジョージアへ・・・

新婚の夫婦はベルタが独身時代交流があった、ダディアディ家を頼ってジョージアのミングレリアに向かいます。ダディアディの家とは、ジョージア族の貴族、公爵および君主であり、サメグロなど地域、ジョージア西部の支配的な一族でした。

彼らが到着したとき、彼らはニコ王子によって迎えられました。 夫婦はクタイシに住み、地元の貴族の子どもたちに言語と音楽を教える仕事に着きました。

質素な木造住宅に住んでましたが、経済的には貧しい生活でした。更に、ロシア・トルコ戦争が勃発、夫のアーサーは戦争記者として働いていましたが生活は楽にはなりませんでした。

ベルタはこの時期にオーストリアのマスコミに執筆した文章を送りました。また、彼女と夫アーサーとの生活をロマンチックに綴った、小説の執筆に取り組みました。

トビリシへ

アーサーとベルタは、ジョージアで社会的に孤立。貧困は社会との関わりを制限しました。また彼らは現地語である、ミングレリアンやジョージア語を流暢に解すことがことができなかったことも大きな理由でした。彼らは生活のために、プロとして執筆活動に取り組みはじめました。

1882年8月、西部ジョージアの上流階級で影響力を持っていたエカテリーネ・ダディアニ(Ekaterine Dadiani)が亡くなったことを境に、夫婦はトビリシに移ることを決意しました。

トビリシ移動後、夫アーサーは生活のために経理、建築、壁紙デザインなど様々な仕事をしました。一方、ベルタはこの期間も執筆活動にいそしみました。この時期に、思想の原型が執筆物に現れはじめます。

ベルタはマイケル・ゲオルグ・コンラッドの特派員になり、最終的に1885年の出版物Die Gesellschaftの記事を執筆。記事のタイトルは「真実と偽り」。エミール・ゾラの自然主義に好意的な議論を寄せました。彼女の最初の重要な政治的仕事である「魂の目録」は1883年にライプツィヒで出版されました。この作品で、世界平和の必然性を主張、軍縮賛成の論を展開します。

アーサーはトビリシでジョージア人のジャーナリストとMと親しくなり、夫妻はジョージアの叙事詩「豹皮の騎士」の翻訳を協力することに同意しました。

ベルタは、ジョージア語からフランス語へ、Mの翻訳を向上させ、アーサーはフランス語をドイツ語に翻訳しました。更に、アーサーはジョージアメディアでいくつかの記事を発表するなどしました。しかし、Mは約束のお金を夫妻に支払いませんでした。

1885年にブルガリアの危機が始まり、ジョージア社会においてますます ロシアの影響が強まります。オーストリア人に対してより敵対的になることをおそれ、最終的にアーサーの家族と和解し、1885年5月にオーストリアに戻りました。帰国後は、オーストリアのハーマンドルフ城で1902年に夫が亡くなるまで生活しました。また、以降より一層積極的に平和活動に携わっていきます。

トビリシのズットナーの生活していた家はどこ?

ウェブサイトの写真を頼りに、探しだしました。場所は、トビリシ市、ディミトリ・ウズナッゼ通りに写真の家屋を見つけることができました。
Bertha von Suttner in Tbilisi
ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)が夫と共に生活していたとされる家屋(2018年6月撮影)

ローカルのベーカリー「Pâtisserie Bakery」の隣、教育省の建物の近くにあります。アクセスは、マーチャラシビリ駅から徒歩5分。
ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)が夫と共に生活た家
ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)が夫と共に生活た家にかけられた記念碑

1882年から1884年にかけて、この家に、ノーベル平和賞を受賞したベルタフォンズットナーとその夫のアルトゥール・グンダッカー・フォン・ズットナーが生活していたことが記されています。

現在は、家は8(人?家族?)が住んでいます。この家を使って平和教育を行うなどの計画があるようですが、買い取るための資金の不足のため、実行には移されていないようです。

奇しくも、著者がこの場所を訪問した日は、ベルタフォンズットナーの誕生日でした。オランダのハーグや彼女がかつて終身会員であったドイツの平和団体国際平和ビューローは、175歳の誕生日を祝いました。

彼女の平和活動は当時からすると先駆的であったことでしょう。しかし、彼女の書いた代表作「武器を捨てよ」は、大きな世界大戦まえの世界にはとても時局的なものでした。戦争をとめることはできなかったまでも、当時の知識人や活動家に大きな影響を与えました。

関連ブログ「[ジョージア] ベルタフォンズットナー(Bertha von Suttner)展示会

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