ジョージアと日本、相撲、ワインの他一体なんの関係があるのか?地理的に遠い両国の直接的つながりは、おそらく皆無に近いのですが、嬉しいつながりではありませんが僅かなつながりの一つとして、シベリア抑留が挙げられます。
シベリア抑留と聞くと、ロシア連邦領内のおよそウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域辺りで起こったことと考えがちなのですが、捕虜となった日本人は当時ソ連邦であったこのジョージアが位置するコーカサス地域にも連れてこられていました。
この地に日本人がやってきて強制労働に従事させられ、祖国への帰還を望みながらもかなわなかった人たちもいました。それらの人たちへの鎮魂碑がトビリシ市の中心から少々離れた場所にあるV. Godziashvili Garden(公園)にあります。
旧満州、樺太、千島から武装解除され投降した日本軍等は約57万5千人(他の資料では63万人)は「捕虜」としてシベリア等にて強制抑留となりました。この数はドイツの238万人に次いで大きなものでした。抑留者は、ソ連が戦争で失った労働力を補うために、鉄道の敷設、森林の伐採などの重労働に従事させられました。
厚生労働省によると、旧ソ連地域に抑留された者は約57万5千人のうち、現在までに帰還したのは約47万3千人(うちモンゴル約 1万2千人)病弱のため入ソ後旧満州・北朝鮮に送られたのは約4万7千人、厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことで、約5万5千人が亡くなりました。
これに対してロシア側は、2007年のエリツィン・ロシア連邦初代大統領訪日時、「ロシア政府及びロシア国民を代表してこの非人間的な行為について謝罪の意を表明」、日本政府に対して、抑留者に関する資料の提供を行っています。しかし、70年以上の時が経っており、情報の収集がますます困難になることが予想されます。
政府資料によると、2014年度末までに特定できた抑留中死亡者は総計 39,218 人となりました。また、日本政府は抑留中の死亡者の特定と共に、遺骨の収集・帰還も行っています。抑留中に死亡した遺族、抑留経験者、抑留経験者の家族の方は、資料開示請求書を送ることで、担当窓口に無料で請求ができます。
大きな通りから公園に入ってすぐにその慰霊碑はありました。慰霊碑は日本語で大きく、「日本人死亡者慰霊碑」とあり、台座に日本語とジョージア語でこの慰霊碑の意味が簡潔に書かれています。
シベリア抑留と聞くと、ロシア連邦領内のおよそウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域辺りで起こったことと考えがちなのですが、捕虜となった日本人は当時ソ連邦であったこのジョージアが位置するコーカサス地域にも連れてこられていました。
この地に日本人がやってきて強制労働に従事させられ、祖国への帰還を望みながらもかなわなかった人たちもいました。それらの人たちへの鎮魂碑がトビリシ市の中心から少々離れた場所にあるV. Godziashvili Garden(公園)にあります。
トビリシの日本人死亡者慰霊碑 ソ連抑留中死亡者小規模慰霊碑は、2010年の3月に竣工しました。 |
シベリア抑留とその数
旧満州、樺太、千島から武装解除され投降した日本軍等は約57万5千人(他の資料では63万人)は「捕虜」としてシベリア等にて強制抑留となりました。この数はドイツの238万人に次いで大きなものでした。抑留者は、ソ連が戦争で失った労働力を補うために、鉄道の敷設、森林の伐採などの重労働に従事させられました。厚生労働省によると、旧ソ連地域に抑留された者は約57万5千人のうち、現在までに帰還したのは約47万3千人(うちモンゴル約 1万2千人)病弱のため入ソ後旧満州・北朝鮮に送られたのは約4万7千人、厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことで、約5万5千人が亡くなりました。
これに対してロシア側は、2007年のエリツィン・ロシア連邦初代大統領訪日時、「ロシア政府及びロシア国民を代表してこの非人間的な行為について謝罪の意を表明」、日本政府に対して、抑留者に関する資料の提供を行っています。しかし、70年以上の時が経っており、情報の収集がますます困難になることが予想されます。
シベリア抑留ー日本政府の対応
ロシア側から旧ソ連時代のシベリア抑留関係の情報が日本人拘留者のカードがスキャンされた形で送られており、日本側でそれをデータベース化し、未特定死亡者数情報との照合を行っています。情報が該当した場合は、遺族に通知され、また同省のウェブサイトにも掲載されます。また、該当なしのばあいは、遺族の求めに応じてカードを開示する仕組みとなっています。政府資料によると、2014年度末までに特定できた抑留中死亡者は総計 39,218 人となりました。また、日本政府は抑留中の死亡者の特定と共に、遺骨の収集・帰還も行っています。抑留中に死亡した遺族、抑留経験者、抑留経験者の家族の方は、資料開示請求書を送ることで、担当窓口に無料で請求ができます。
シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録ー世界記憶遺産に登録
京都の舞鶴は、第2次世界大戦後13年間にわたり、大陸から約66万人の引揚者と1万6千269柱の遺骨を迎え入れました。舞鶴市は、2014年3月4日に舞鶴引揚記念館が所蔵するシベリア抑留と引き揚げの手記や絵画など570点の資料を世界記憶遺産への登録をめざし、『舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』として、ユネスコへ申請。翌年の2015年10月10日に、ユネスコの世界記憶遺産に登録されました。これによって、風化しつつある抑留者、何よりも戦争経験が後世にも残されていくことになります。慰霊碑がある公園の様子
慰霊碑はトビリシ市の中心から離れた公園にあります。公園は、近所のおじさんや子連れの家族がのんびりと過ごすような市民の憩いの場でした。おじさんたちが集まって、チェスをしたり、またボードゲームをしている傍らで、子どもたちが遊んでいます。公園には、噴水があるのですが、著者が訪問した時期が4月であったためか、噴水に水はありませんでした。水のない噴水 |
さきの大戦後1945年から1956年までの間に祖国への帰還を希みながらこの地で亡くなられた日本人の方々を偲び平和への思いをこめてこの碑を建設する
慰霊碑、台座 |
実は、著者の母方の祖父が抑留経験者です。ただ、祖父はかなり若い年齢(50代前半)で亡くなっているために直接に会って話を聞く機会はありませんでした。子ども時代、祖父について尋ねた際に聞いたのは、床屋であったこと、そして「シベリア抑留」経験者である、ということのみにすぎません。
唯一、母を通じて聞いたのが、戦後約5年何の音沙汰もなかったため、誰もが祖父は「亡くなった」と考えていたこと、そして帰国した祖父の歯は抜けて、栄養失調甚だしい状況であったことなどでした。祖父は、シベリアの抑留の話をしたがりませんでしたが、母が唯一聞いた話では、祖父の同僚は凍傷で足の指などを失い、過酷な飢えや寒さをしのがねばならなかったことなどです。
祖父は、満身創痍でしたが幸い家族のもとに帰ることができました。しかし、それでも多くの抑留者が帰還を望んで果たせず、この地の土となったことにやるせない思いがします。
慰霊碑までのアクセス
観光地ではありませんが、日本の歴史を振り返る場所として、訪問することも意義深いのではないかと思います。
慰霊碑がある公園までのアクセスはバスと電車と2つの方法があります。
慰霊碑がある公園までのアクセスはバスと電車と2つの方法があります。
バスの場合
降車場所のバス亭「Medical University」には24、47、49、54、87、150のバスが停まりますが、トビリシ市内繁華街からの場合は、87のバスがよいでしょう。Medical Universityの周辺の様子 |
帰りのバスは150番がよいでしょう。バス亭は公園前にあります。
公園前の歩道橋 |
バス150番 |
地下鉄
最寄駅は「Medical University駅」。下車10分ちょっとの距離です。
繁華街「Rustaveli 駅」からですと、途中「Station Square 駅」で乗り換えが必要です。
駅からの徒歩、そして乗り換えなどを考えると、バスで来るのがよいかと思います。
駅からの徒歩、そして乗り換えなどを考えると、バスで来るのがよいかと思います。
最寄駅から公園までの地図 マップの目的地が公園の真ん中を指すため、名目上公園前のバス亭を目的地としています |
関連ブログ
参考ウェブサイト
シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査についてhttp://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html
国際法から見た 日本人捕虜のシベ リア抑留
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1993/1994/23/1994_23_33/_pdf
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