故郷を想う骨 -フィリピンでの遺骨収集のスキャンダル〜日本の遺骨収集事業の今後

厚生労働省によると、第二次世界大戦での海外戦没者数は約240万人で、うち収容遺骨数が約128万柱、未収容遺骨数が約112万柱です。未収容遺骨のうち海没遺骨は約30万柱、相手国事情により収容が困難な遺骨は約23万柱です。いまだに多くのご遺骨が故郷に還ること無く異国の地ということになります。

同じく厚生労働省が公表している「地域別戦没者遺骨収容概見図」で、各国の海外戦没者概数、収容遺骨概数、未収容遺骨概数を確認すると、最も海外戦没者数の多いフィリピンでは518,000人が亡くなり、369,470の遺骨がまだフィリピンに残されていることがわかります。フィリピンの遺骨収集が残された遺骨の多さにも比例し、進捗が遅いことが理解できます。

フィリピンの遺骨収集事業は、平成22年10月以降中断していたものの、平成30年5月8日、厚生労働大臣とフィリピン共和国外務大臣が遺骨収集に係る協力覚書に署名し、このほど再開となりました。

遺骨収集事業とは何か、なぜフィリピンでの遺骨収集事業が中断されたのか、そしてフィリピンでのアメリカ軍の遺骨収集の取り組み等についてまとめました。

フィリピンの遺骨収集
フィリピンの遺骨収集

1. 遺骨収集事業とは

遺骨収集は厚生労働省の管轄で、海外諸国に放置されたままになっている、第二次世界大戦における戦没者(旧日本軍軍人、軍属、及び民間人)の遺体を探し、収容して日本へ送還する事業です。

昭和27年からはじまり、平成3年度からは旧ソ連地域における抑留中死亡者、平成6年度からはモンゴルにおける抑留中死亡者についても御遺骨の収容が可能となりました(厚生労働省ウェブサイト)。

2. フィリピンの遺骨収集が一時中断された理由

遺族と共に国が現地を訪れて戦没者の遺骨を収集していたものの、遺族の高齢化などに伴い有力な情報が減少するに伴い、収集遺骨が減少しました。しかし今だに多くの遺骨が残されているという現状に国が打開策として、民間委託をすることになりました。

日本兵、日本人が第二次大戦末期に疎開したのは
ルソン島の山あいの街

2.1. 日本人の遺骨ゼロ?

そこで、民間の組織、とあるNPOが委託を受けて、業務を行う運びとなりました。しかし、そのNPOの遺骨収集の方法が問題になりました。

委託を受けたそのNPOはフィリピンに支部を作り、そこに集められた骨を日本人の骨として、日本の厚生労働省に提出し、日本の千鳥が淵の戦没者慰霊碑にて供養していました。しかし、様々な証言から盗難されたフィリピン人の骨が多数含まれているのではないかという疑惑があがり、2010年10月に「疑惑の遺骨”を追え 戦没者遺骨収集の闇」でも報道され、大きな反響を呼びました。

そして、それから数年後、DNA鑑定の結果、改めて日本人の遺骨が全く含まれていないことが判明しました。その結果は2018年に厚生労働省のウェブサイトに発表されています。

2.2. 日本人の遺骨なし?!なぜこのような事態になったのか?

理由1:日当目当て
なぜ、そのようなことになったのか・・・遺骨収集のシステムに問題がありました。委託を受けた団体はフィリピンに支部を作り、その支部に勤めるローカル職員が情報を募り、遺骨に対して謝礼を支払っていました。

謝礼目当てに、ルソン島の北部ではフィリピン人地元住人の先祖伝来のお墓から遺骨が盗まれたり、現地の人のお墓か確認せずに、それが日本人の遺骨とされていたようです。現地の人に支払われたお金は500ペソ/1柱と、国が定める地方の最低賃金(約400ペソ/1日)よりも高いため、その情報を聞きつけた地域住民が、各地から骨を集めてきました。

理由2:鑑定方法の問題
遺骨を持ち込んだ人は、供述書を記載します。どこでその遺骨を発見したのか、どういう状況だったのか、日本人の遺骨と認められる理由を記載することとなっていますが、それらが正確ではありませんでした。

また、その収集された遺骨は専門家によりフィリピン国内で鑑定されることとなっているものの、持ち込まれた遺骨のDNA鑑定はなされないため、フィリピンの専門家は遺骨の数を数えるのみにとどまっていたということ。

2.3. 民間委託を見直す
その後、事実確認の調査がされ、遺骨に死後20年ほどの骨が含まれていることがわかったようです。その後の調査で、日本人の遺骨なしという鑑定結果が発表されるに至りました。2011年に国は民間委託を見直しました。

民間団体への委託を情報調査に限定し、フィリピン人へ対価を支払わない事、遺骨を日本へ送還する前に研修を受けた厚労省職員を派遣することなどを決めました。

3.アメリカの遺骨収集事業の一端をフィリピン、マニラで見る

 Manila, American Cemetery & Memorial
 フィリピン マニマニラ, アメリカン・セメタリー & メモリアル (Manila, American Cemetery & Memorial) タギッグ市フォート・ボニファシオ

3.1. マニラのアメリカ人墓地

マニラには、第二次世界大戦で戦死した兵士のお墓があります。これはアメリカ人墓地ですが、第二次世界大戦中にアメリカ軍として従軍したフィリピン人もこちらのお墓に葬られています。

一面の白い十字架(ユダヤ教を信仰する人のお墓もあり、ダビデの星も見える)見渡すと何だか新世紀エヴァンゲリオンのセカンドインパクトで亡くなった人たちのお墓のような風景が広がっています。

グローバルシティにあり、マニラのビジネスの中心地となるマカティ市から車で20分程の場所に位置します。忙しいマニラの喧騒から離れて広がる墓標の数に圧倒され、このお墓の数以上を遥かに上回る人が先の大戦で命を落としたことを実感します。

フィリピン マニマニラ, アメリカン・セメタリー & メモリアルラ首都圏 (Manila, American Cemetery & Memorial)
フィリピン マニマニラ, アメリカン・セメタリー & メモリアル首都圏マニラ (Manila, American Cemetery & Memorial) タギッグ市フォート・ボニファシオ内の24枚のタイル画の一つ

3.2. どういう場所か?

152エーカー(東京ドームの広さが約11エーカーなので、その13,4個分)の広さの墓地には第二次大戦の時に太平洋地域、特にニューギニア・フィリピンで亡くなったアメリカ兵とアメリカ兵として戦って戦死したフィリピン人も含めて17,201人が眠っており、太平洋地域では最大のものです。

とはいうものの、お墓の下は殆ど空っぽでご遺体は大体が家族の希望で生まれ故郷の土に還されます。綺麗に手入れをされた芝一面の十字架。その中央のモニュメントには24枚のタイル画があり、アメリカが日本とどう戦況を交えたのかが地図で記されています。まるで、戦略図のような様相です。

フィリピン マニマニラ, アメリカン・セメタリー & メモリアルラ首都圏 (Manila, American Cemetery & Memorial)
フィリピン マニマニラ, アメリカン・セメタリー & メモリアル (Manila, American Cemetery & Memorial) 中央部にある、戦没者の氏名の刻まれた慰霊塔

3.3. 慰霊塔を理解する

それを囲い込むように大きく高い壁のようなものが何枚も見られます。ぐっと近づくと、そこには戦没者の名前が刻まれています。今だに行方のわからない、あるいは海戦などで遺体の回収ができなかった戦没者の名前、合計32520名分が明記されています。

フィリピン マニマニラ, アメリカン・セメタリー & メモリアルラ首都圏 (Manila, American Cemetery & Memorial)
フィリピン マニマニラ, アメリカン・セメタリー & メモリアル (Manila, American Cemetery & Memorial) 内の慰霊塔に刻まれた名前とその横に有る印

銅色のボタンのついている場所は、遺体が発見されたという印。金色は、最高の勲章である『名誉勲章』を受けた人。戦闘においてその義務を超えた勇敢な行為をし、若しくは自己犠牲を示したアメリカ軍人に与えられるが、死後の受賞が多いそうです。“味方にとっては英雄”で、“敵にとっては脅威だった人”たち。こういう形で彼らの生きていた証を見て戦争の愚かしさを苦く思いました。

アメリカ政府の遺骨収集
アメリカン・セメタリー & メモリアル

3.4. アメリカの遺骨収集事業

アメリカ政府の遺骨収集は、The American Battle Monuments Commission (ABMC) 特別な政府機関があり、そこが実施しています。その機関がマニラの米軍墓地を管理しています。ABMCウェブサイトを訪れ、人名をタイプすると、どこでどのような原因で亡くなってどこに葬られているのかを容易に探すことができます。遺族、関係者にとって有難いシステムではないでしょうか。

それらを閲覧しながら、その人の人生に想いを馳せたりしました。戦争に来ていなかったら彼らの人生はどうなっていたのだろうかと。。歴史の大きな流れであろうとも、個人の人生でも「もし」というのは論じる意味がないのかもしれませんが、ひとりひとりの名前を見ながら深いため息がでました。

さてABMCの遺骨収集の方法ですが、可能性がある場所を探し、ご遺体が見つかれば一昔前であれば歯型などで人物を特定していたそうです。今は、費用は高くなるもののより精度の高いDNA鑑定を行っているそうです。

ABMCのスタッフの方とお話したことがありますが日本の遺骨収集とその弔い方法には驚かされたと言っていたのを思い出します。死者の弔い方法の文化の差異を考慮に入れても、遺骨を一箇所に集め、まだ鑑定されていない骨を火葬していた現場に居合わせたことがあると言います。

フィリピン各地の慰霊碑
日本の戦没者慰霊碑はフィリピンのいたるところにあると聞きますが、その中でバギオの慰霊碑、コレヒドール島の観音像を訪れたことがあります。著者が訪問した時には花が供えてありました。フィリピンに数百とある慰霊碑は全て民間運営と聞きます。

4.遺骨を集め続けた男性

遺骨を集め続けた男性、西村幸吉さんのお話が本「ココダの約束」がオーストラリア国籍のジャーナリストによって発刊されました。激戦地ニューギニアで25年間、私財を全て投じて戦友たちの遺骨を収容し続けた西村幸吉さん、亡き戦友への-万が一のことがあったら・・・遺骨を拾いに来る-という約束を守り続けた男性のお話として強く訴えるものがあります。


ちなみに、NHKのウェブサイトで戦争証言アーカイブで西村幸吉さんへのインタビューを見ることができます。証言は生々しいものですが、西村さんの他にも多くの証言を見ることができ、その当時の様子を知ることができます。戦争経験者が亡くなっていく中、こうした口頭の証言を残すことの意味は大きいと思います。

著者自身は、それらをみて平和主義者(Pacifist)ではないものの、紛争解決学を学んだ者として、武力紛争が残す傷の大きさを改めて考えさせられます。また、国がどう過去の戦争を締めくくるのか、遺骨問題からも日本の戦争に対する態度が見える気がしてなりません。

5.過去と向き合う


過去数年、過去の大戦とその中で起こった出来事、また日本の政治家の発言「慰安婦発言」が世界的に物議を醸し出しました。その発言に反応し、著者が当時生活していたオランダでも日本国大使に書簡を送るというアクションがあったと聞きました。

そのため、政治家の発言の意図をインターネットのニュースで読み、またコラムで識者の意見を読んだりしました。識者の意見に頷くことができなかったので、この問題については、より注意深くことを分析しなければならないと思ったわけですが、いずれにしてもこの問題を深く知る人にも、そうではない人にも国内外に波紋を広げたことは事実です。

そして、日本の力ある政治家が過去の戦争問題に対してどういった解釈をしているのか、(意図しない形で?)宣伝する?形となってしまいました。今まで日本は隣国からの反発に対してはかなり冷ややかな対応をしていましたが、いまは欧米諸国が議論に参加し、発言を強く非難しています。

党派、思想的立場の違い、歴史解釈などから、国内で様々な戦争解釈がなされることは避けようがありませんが、今回偶然と称してよいのか?!わからない形で戦中起こったことが議論にあがりました。

残された遺族のためにも遺骨が近い将来日本に戻るように、そして今回の問題から日本が発展的な形で過去の戦争に向き合っていくことができるようにと願うばかりです。


関連ブログ

[書籍] フィリピン関連必読書― 炎熱商人(上下巻)

参考ウェブサイト

戦没者慰霊事業の実施
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido01/index.html

フィリピン国内に保管中の遺骨のDNA鑑定結果について
https://www.mhlw.go.jp/content/12103000/000348128.pdf

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