さまざまな困難がありましたが、19 世紀、アイルランド全体で人口は80%カトリックで、アルスター(現北アイルランド)ではプロテスタント系が多数でした。
ジャガイモ飢饉(Great famine)(1845~52 年)が起こり、最終的には、人口の20%が餓死および病死、10%から20%が国外へ脱出・移住しました。飢饉によって、最終的にはアイルランド島の総人口が最盛期の半分にまで落ちこみました。さらにアイルランド語話者の激減を始め、民族文化も壊滅的な打撃を受けました。飢饉は主食であり貴重な輸出作物であったジャガイモの疫病の蔓延のゆえに起こりました。しかし、飢餓による死者がこれほど多くなった理由に、飢餓の最も酷い時期にも食料の輸出され続け、アイルランド住民が食べるものがなかったという人為的理由によります。これによってアイルランド人は激しい怒りをかきたてられました。
1997年当時の英国首相トニーブレアがジャガイモ飢饉の追悼集会の場で、イギリス政府の要人としては初めて公式の場で謝罪の手紙を読み上げました(Lyall.S.1997)。この史実がアイルランド人とっての大きな傷を残したことがわかります。
1916 年復活祭蜂起(Easter Rising)
1914年にイングランドは、アイルランド自治法を制定しましたが、大戦の影響とアルスター地方(北アイルランド)の統治についての合意が得られず、施行には至りませんでした。第一次世界大戦の戦力が割かれている間の1916 年、復活祭蜂起(Easter Rising)がおこりました。アイルランド共和主義同盟(IRB)の軍事部門によって組織され、復活祭週月曜日の4月24日から30日まで7日間続きました。パトリック・ピアースに率いられたアイルランド義勇軍、ジェームズ・コノリーに率いられたアイルランド市民軍、200人の女性連盟(Cumann na mBan)がダブリンの主要部を占拠。鎮圧後は、リーダーたちは処刑されましたが、同情票が集まり、アイルランドのナショナリズム政党、シン・フェイン党が議席を伸ばします。
1919年アイルランド独立戦争
独立の機運が高まっていきます。1919年、シン・フェイン党の議員が集まり、アイルランドの独立を宣言。これによって、独立千戦争に突入します。
英愛条約(1921年)で休戦が成立するものの、その条約にはアイルランドは英国の自治領であり、北アイルランドについては住民の決定にゆだねる等、イングランドにとって大変都合のよいものでした。この英愛条約がアイルランドのナショナリストを分断し、ゆくゆくはアイルランド内戦を引き起こします。ナショナリストと言えども、一枚岩ではありませんでした。多くの紛争で見られますが、敵対する勢力との条約締結の内容への不満から、新しいグループを結成し、闘争を続ける場合が多く見られます。
このあたりの話は[映画] 麦の穂をゆらす風ー北アイルランド紛争、内戦の中にある悲劇の人間ドラマ を参照ください。
アイルランド自治法が制定され、北部のプロテスタントが多く住む地域は、英国の自治領ととしてとどまりました。1916年の復活祭蜂起で生き残ったエイモン・デ・ヴァレラは1922年独立国になったアイルランド共和国の最初の大統領になりました。
それと同時に英国のアイルランド統治法により、アイルランドは正式に分裂し、独立した「南」と英国連合王国に残った「北」という構図が生まれました。
アイルランド内の独立の気運が高まり、武装蜂起なども起こり北アイルランドのプロテスタントは危機感を募りました。英国への忠実性を強調し、第一次世界大戦時は、アルスター部隊(36th Ulster Division)として参戦、多くの戦死者を出し、現在のロイヤリスト(英国忠誠派)のヒーローとされています。第2 次世界大戦でも、アルスターは英国サイドで戦い、王立アルスターライフル連隊(Royal Ulster Rifles)はノルマンディーなどの戦いに参戦しました。
前述の通り、17世紀にアイルランドにわたってきたのは植民者の多くは長老派教会(プレスビタリアン)のスコットランド人です。
こうして、徐々に宗教だけではなく、お互いの帰属するグループへの帰属意識や忠誠心、競争心等も生まれ、お互いの不信感は避けがたい衝突となって現れました。北アイルランドの紛争をより複雑なものへとしていき、二つのナショナリズム、文化・宗教的アイデンティティの衝突と言えるような状況を形成していきます。
参考リンク
Lyall.S.(1997).
Past as Prologue: Blair Faults Britain in Irish Potato Blight(June 3 1997)The New York Times,
http://www.nytimes.com/1997/06/03/world/past-as-prologue-blair-faults-britain-in-irish-potato-blight.html
Hancock.L.(1998).'Northern Ireland: Troubles Brewing'
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/landon.htm
Sullivan.F. (2014).Why Northern Ireland’s Protestants really don’t want Scotland to leave the U.K.
The Washington Post. https://www.washingtonpost.com/posteverything/wp/2014/09/16/why-northern-irelands-protestants-really-dont-want-scotland-to-leave-the-u-k/?utm_term=.a89ddc3452f8
The Long, long trail.( ). 36th (Ulster) Division
http://www.longlongtrail.co.uk/army/order-of-battle-of-divisions/36th-ulster-division/
制度化されたカトリック教徒への差別~アイルランド独立
17世紀から徐々にアイルランドに生活するカトリックにとって、社会・政治的に不利な状況になってきました。1661年審査法(Test Act)が制定されます。これはイギリスの王政復古期にイギリス議会がその時期に制定した法律の総称で、国教会信者以外の者は公職(官職)に就けない、またさまざまな法的な妨げが、カトリック信者土地の所有、教育など、富の蓄積や教育へのアクセスを遠ざけ (Darby 1976, 4) カトリック信者(を含む非国教徒)の排除をねらい制定されました。のち、1689年に寛容法がだされ、国王への忠誠を誓うことで宗教的罰則の対象外になる法律が出され、実質プロテスタントの信仰を認めることになりました。しかし、以降もカトリック教徒は除外され続け、1828年に審査法が廃止、1829年のカトリック教徒解放法が出されるまで、カトリック教徒には国教徒同様の権利が認められませんでした。ベルファスト、市内のカトリック教会外観 |
1997年当時の英国首相トニーブレアがジャガイモ飢饉の追悼集会の場で、イギリス政府の要人としては初めて公式の場で謝罪の手紙を読み上げました(Lyall.S.1997)。この史実がアイルランド人とっての大きな傷を残したことがわかります。
1916 年復活祭蜂起(Easter Rising)
1914年にイングランドは、アイルランド自治法を制定しましたが、大戦の影響とアルスター地方(北アイルランド)の統治についての合意が得られず、施行には至りませんでした。第一次世界大戦の戦力が割かれている間の1916 年、復活祭蜂起(Easter Rising)がおこりました。アイルランド共和主義同盟(IRB)の軍事部門によって組織され、復活祭週月曜日の4月24日から30日まで7日間続きました。パトリック・ピアースに率いられたアイルランド義勇軍、ジェームズ・コノリーに率いられたアイルランド市民軍、200人の女性連盟(Cumann na mBan)がダブリンの主要部を占拠。鎮圧後は、リーダーたちは処刑されましたが、同情票が集まり、アイルランドのナショナリズム政党、シン・フェイン党が議席を伸ばします。
1919年アイルランド独立戦争
独立の機運が高まっていきます。1919年、シン・フェイン党の議員が集まり、アイルランドの独立を宣言。これによって、独立千戦争に突入します。
英愛条約(1921年)で休戦が成立するものの、その条約にはアイルランドは英国の自治領であり、北アイルランドについては住民の決定にゆだねる等、イングランドにとって大変都合のよいものでした。この英愛条約がアイルランドのナショナリストを分断し、ゆくゆくはアイルランド内戦を引き起こします。ナショナリストと言えども、一枚岩ではありませんでした。多くの紛争で見られますが、敵対する勢力との条約締結の内容への不満から、新しいグループを結成し、闘争を続ける場合が多く見られます。
このあたりの話は[映画] 麦の穂をゆらす風ー北アイルランド紛争、内戦の中にある悲劇の人間ドラマ を参照ください。
アイルランド自治法が制定され、北部のプロテスタントが多く住む地域は、英国の自治領ととしてとどまりました。1916年の復活祭蜂起で生き残ったエイモン・デ・ヴァレラは1922年独立国になったアイルランド共和国の最初の大統領になりました。
それと同時に英国のアイルランド統治法により、アイルランドは正式に分裂し、独立した「南」と英国連合王国に残った「北」という構図が生まれました。
北アイルランドのプロテスタントが見せる英国への忠誠心
アイルランド内の独立の気運が高まり、武装蜂起なども起こり北アイルランドのプロテスタントは危機感を募りました。英国への忠実性を強調し、第一次世界大戦時は、アルスター部隊(36th Ulster Division)として参戦、多くの戦死者を出し、現在のロイヤリスト(英国忠誠派)のヒーローとされています。第2 次世界大戦でも、アルスターは英国サイドで戦い、王立アルスターライフル連隊(Royal Ulster Rifles)はノルマンディーなどの戦いに参戦しました。前述の通り、17世紀にアイルランドにわたってきたのは植民者の多くは長老派教会(プレスビタリアン)のスコットランド人です。
こうして、徐々に宗教だけではなく、お互いの帰属するグループへの帰属意識や忠誠心、競争心等も生まれ、お互いの不信感は避けがたい衝突となって現れました。北アイルランドの紛争をより複雑なものへとしていき、二つのナショナリズム、文化・宗教的アイデンティティの衝突と言えるような状況を形成していきます。
北アイルランド紛争の背景について北アイルランドの紛争を知るために(1)ちょっとだけ、アイルランドの紛争の背景のおさらい
Lyall.S.(1997).
Past as Prologue: Blair Faults Britain in Irish Potato Blight(June 3 1997)The New York Times,
http://www.nytimes.com/1997/06/03/world/past-as-prologue-blair-faults-britain-in-irish-potato-blight.html
Hancock.L.(1998).'Northern Ireland: Troubles Brewing'
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/landon.htm
Sullivan.F. (2014).Why Northern Ireland’s Protestants really don’t want Scotland to leave the U.K.
The Washington Post. https://www.washingtonpost.com/posteverything/wp/2014/09/16/why-northern-irelands-protestants-really-dont-want-scotland-to-leave-the-u-k/?utm_term=.a89ddc3452f8
The Long, long trail.( ). 36th (Ulster) Division
http://www.longlongtrail.co.uk/army/order-of-battle-of-divisions/36th-ulster-division/
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