[北アイルランド] 北アイルランドの紛争を知るために(1)ちょっとだけ、アイルランドの紛争の背景のおさらい

北アイルランドを歩くと「厄介事(トラブルズ)」という単語がちらほら聞こえてきます。地元の人が北アイルランドの紛争を呼ぶときに使う名称です。「厄介事」とは、北アイルランドのカトリック系住民の差別撤廃を目指す公民権運動が1968年10月プロテスタント系住民と衝突して以来尖鋭化して起こった一連の事件をいい、1969年から和平合意が交わされる1998年の間に起こった戦闘で約3,500人が亡くなっています。

政治的な緊張が先鋭化していき、危機的状況から暴力に発展するには、長いそれこそ数世紀かかっています。数世紀かけて、住民の意識に深く入り、教育システム、社会システムに反映され、暴力的爆発で頂点を迎えます。

ロンドンデリーの街を見下ろすようにある大砲




その背景は、16世紀にさかのぼります。


「厄介事(トラブルズ)」の歴史的背景


カトリックからイングランド国教会への転向
「厄介事」を理解するには、16 世紀まで遡る必要があります。1541 年、イングランド国王ヘンリ8世(1491- 1547年)は、テューダー朝第2代のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)が「アイルランド国王」自称します。離婚問題を元にローマ・カトリック教会からの分離し、イングランド国教会を設立し、自らが首長となったたことで知られます。

ヘンリー8世以前から、イングランドは様々な形でアイルランドに影響を与え、支配していましたが、両国の関係はもっと緩やかなものでした。アイルランド島は教皇の名目上の宗主権の下にあり、 アイルランド卿を名乗るイングランド王に与えられた土地と見なされていました。

ヘンリ8世は、英国国教会の首長となり、同時にアイルランド王を自称します。しかしアイルランドはまだローマ法王の権力を認め続けました。17世紀初頭から、イングランドが北アイルランド(アルスター)の植民地化をすすめるべく、スコットランド人を送りました。「英国忠誠派」(loyalists)の多くは、もともとイングランド人ではなくスコットランド人でした。

クロムウェルによるアイルランド侵略

1649~50 年、オリバー・クロムウェルはアイルランドを侵略しました。クロムウェルはカトリック教会に猛反対であり、彼の軍隊は虐殺を繰り返しながらアイルランドの反乱を厳しく弾圧しました。ミル-マウントの虐殺、寺院の焼き討ち、婦女子に対する暴力を行う他、取り上げた土地を兵士に与えました。クロムウェルはそれらを「神のみちびき」として議会に報告しました。

クロムウェルはプロテスタントにとっては英雄であり、カトリックにとってはイングランドの残忍さのシンボルとなりました。後、アイルランドでは、イギリスからの独立運動が激しく展開されることになります。しかし、厳しい政策は長くは続かず、クロムウェルの死後は共和政は衰退し、王制が復活します。

名誉革命:ジェームズ2世 vs ウィリアム3世

カトリックであったジェームス2世と国教会側である議会との対立が先鋭化していきます。
1688年、カトリック派の国王ジェームズ2世に反発した議会が、プロテスタントの擁護者であるオランダ総督オラニエ公ウィレム3世を迎え入れます。結局、ジェームズ2世はフランスに亡命しました。
ウィレム3世とメアリ2世(ジェームズ2世の娘)は「権利の宣言」を受けいれ、「権利の章典」を制定しました。ここに議会政治と国教会制度を柱とするイギリスの立憲君主政治が確立します。

しかし、事はこれでおさまりませんでした。イギリス国王となったウィリアム3世を、カトリック勢力の強いアイルランドでは国王とは認めませんでした。この情勢を見てフランスに亡命していたジェームズ2世はフランス軍を引き連れアイルランドに赴き、反ウィリアム勢力を結集して挙兵しました。一方でウィリアム3世はオランダ軍を率いてアイルランドに出兵。ウィリアマイト(ウィリアム3世支持派)とジャコバイト(ジェームス2世派)との間で戦争(ウィリアマイト戦争)が起こりました。

(ロンドン)デリーの籠城/包囲(Siege of Derry)
ジャコバイト軍はプロテスタントの拠点の1つである北部アルスターの都市ロンドンデリーを攻撃するべく包囲戦を展開しました。数で勝るジャコバイト軍でしたが、訓練・装備が不十分な農兵で、3カ月半(1689年4月18日~7月28日)ウィリアマイト勢力を壁の中に留めることに成功しつつもウィリアマイト軍救援隊による包囲網突破を許してしまいます。

デリーのビショップの門

(ロンドン)デリーのマップ
赤い囲いが城壁です


ボイン川の戦い
翌年1690年7月のダブリン北のドロハダ地域のボイン川の戦いでジェームズ2世率いるジャコバイトがウィリマイトに破られました。これ以後、プロテスタントによるアイルランド支配が進み、カトリック地主の土地は取り上げられて、さまざまな側面でカトリック教徒が差別されていくことになります。また、このボイン川での戦いを記念する行事は7月12日(グレゴリア歴)となります。

のち、このボイン川の戦いを記念した行事、パレードなどがロイヤリストたちによって行われますが、これがナショナリスト側を刺激し、暴動に発展することもありました。






*数奇な運命をたどったクロムウェルの首の話は以下のリンクをご参考下さい
HONZ(2015)『絶対に見られない 世界の秘宝99』クロムウェルの首
http://honz.jp/articles/-/41620

BBC.().The Battle of the Boyne
http://www.bbc.co.uk/history/events/battle_of_the_boyne


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