[北アイルランド] 北アイルランドの紛争を知るために(3)厄介事:失政による人災

公民権運動の盛り上がり

アイルランド分裂以降、北アイルランドのカトリックは差別を受け、就職・政治・教育の場で機会の不平等に苦しんでいました。1960年代人権運動の世界的な盛り上がりに連動し、平等を求める運動が盛りまた、南北統一アイルランドを求める運動も起こりました。
また一方で、それに対抗するかのようにプロテスタントサイドで、オレンジオーダー*1の行進で暴動が発生します(南野 2011, p221)。1969年にそれらの運動が先鋭化し、北アイルランドは内戦に近い状態になりました。

*1、ボイン川の戦いから約100年後(1796年)に結成された「オレンジ会」(Orange Order, Orange Lodge)にルーツを持つ団体。ボイン川の戦いのプロテスタントの戦勝記念日7月12日には軍隊調の音楽で街中を行進します。服装も軍隊のようで、カトリック地区を行進し、挑発します。

紛争による死者
1969 年から1998 年のベルファスト合意までの約30 年間は「北アイルランド紛争」あるいは、「厄介事」(The Troubles)と呼ばれ、約3500人の死者を出しました。1972年がピークで、480人が死亡し。1969年から1994年までの死者数を追った調査では、死者の大半が男性、20~24歳が一番多く、全体の死者の26パーセントが21歳あるいはそれ以下、カトリックが殺された数は、プロテスタンの数よりも多く(治安部隊の数を含めると、両者の死者の割合は同数に近くなる)、一般市民が多く巻き込まれ全体で53パーセントと示しています(Fay et al. 1998)。地理的分布として、犠牲者の1,540人がベルファストで殺されています。

ライデン大学の統計を利用すると「低強度紛争」に分類されます。「低強度」などと書くとそれほどひどくない状況と誤解を受けるかもしれませんが、一週間に何度かは、誰かが殺害されるというニュースを聞き、それが限られた地域の中で集中して起こり、かつそれがいつ自分の身あるいは家族に起こるのかを考え、心配しながら過ごさねばならないことは、大きなストレスです。それがOECDの加盟国内、そして一見イギリスの他の地域とは変わらない街で起こっているという異常性は特筆に値するのではないでしょうか。

アイルランドの国旗が見える一見普通のマンション。
この建物の最上階は、見晴らしがよいため「厄介事」が起こっている最中、
軍隊が利用していました
雨のベルファスト
一見、イギリスの他の街と変わらぬ街並み。しかし、20~40年前は、頻繁に暴力


「厄介事」の重要事件
紛争が始まり、毎年のようなさまざまな事件が起こりました。北アイルランドの第二都市であるデリーのカトリック系住居団地であるボグサイドで大きな暴動が発生し、ついにベルファストなど北アイルランドの都市に拡大。英国軍隊が北アイルランドの都市に配置され、紛争が激化していきます。1972年は街の至る所でIRAによる爆弾が爆発、あるいは襲撃があり、それに対する報復としてアルスター義勇軍(UVF)も報復、暴力は政府や「敵対する勢力」にのみではなく住民を巻き込んだテロ行為となり、暴力が連鎖します。

公民権運動(1969年~1972年)
1968 年、公住居が不当にプロテスタント系の市民に割り当てられていることに対し、カトリック系人権運動家たちは座り込みをします。そうした、一連の市民の動きに対してストーモント(北アイルランド政府)は、アルスター警察隊(Royal Ulster Constabulary: RUC)を送り、事態を鎮静化し、法規制を強化します。1969年10月5日、公民権を求める運動デリーでが起こりました。この日が「北アイルランド紛争(厄介事)」が始まった日とされています。

公民権運動を描いたデリーの壁絵
公民権運動を描いたデリーの壁絵
「JOBS NOT CREED(信条ではなく仕事を!)」「ONE MAN ONE VOTE(一人一票)」

拘留 (1971-1975年)
拘留とは、容疑者を裁判なしで交流できる制度。1971年7月のデリーでの暴動で、軍がカトリック系住民2名を射殺、しかし北アイルランド自治政府は、調査機関の設置に応じず、IRAも報復テロを繰り返しました。その中、現状打開のための措置としてインターメントを導入しました。この手法は1950年代にIRAを活動を抑え込みにある一定の効果を挙げていました。しかし、状況は1950年代とは異なっており、連行したカトリック系住人342名中105名は嫌疑不十分で釈放、カトリック住民からの激しい反発を招きました。拘留は、狙っていた治安の回復とはならず政治的大失敗となりました(Yagihashi. p71)。政権
公民権運動の行進のビラ
(c) Museum of Free Derry

血の日曜日(1972年1月30日)
1972年1月30日、インターメントに抗議するデモ行進に、英国軍が発砲。14名の死者と15名の負傷者を出した事件。
事件後、英国軍は死者は銃器や爆弾で武装していたと証言し、発砲と市民殺傷を正当化しましたが、市民側からの砲撃で負傷した兵士は一人もおらず、被弾した車はありませんでした。

(c) Museum of Free Derry 

血の金曜日事件 (1972年7月21日)
1972年7月21日にIRA暫定派によってベルファストで引き起こされた一連の爆破事件。80分間に20発の爆弾が爆発し、9人の死者(うち2人は英国軍兵士)と130人の負傷者を出しました。








*1オランダのライデン大学の人権侵害に関する研究プログラム(Interdisciplinary Research Program on Causes of Human Rights Violations:PIOOM)では紛争拡大の5段階を区分しています。①「平和的安定状態」②「政治的緊張状態」③「政治危機」④「低強度紛争」一年に100人~999人までの死者⑤高強度紛争(1年に1,000人以上の死者)

用語

Provisional IRA(the Provos):IRA 暫定派
Ulster Volunteer Force (UVF): アルスター義勇軍
Ulster Defence Association (UDA):アルスター防衛協会



引用、参考文献


Fay, Morrissey and Smyth. (1998).Mapping Troubles-Related Deaths in Northern Ireland 1969-1998. http://cain.ulst.ac.uk/issues/violence/cts/fay98.htm#tables

Minamino. Y.(2011).北アイルランド紛争 “Troubles” の政治的起源─ オニール改革とストーモント体制の崩壊 ─
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.27-4/11_MINAMINO.pdf

Yagishita.K (). ヒース政権下における北アイルランド問題-サニングデイル協定(1973)に至る政治過程、同志社法学 53巻4号
https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/12078/kj00000130851.pdf

参考リンク

http://cain.ulst.ac.uk/sutton/chron/index.htmlには、この紛争で亡くなった人のリストが年毎にまとめられています。年代をクリックすると、亡くなった日、名前、宗教、何者か(一般市民、民兵組織に属している等)、誰によって殺害されたのか、どこで起こったのか等のデータが見えます。

主要な事件
・血の金曜日事件 (1972年7月21日)
・サニングデ―ル合意 (1973-1974)
・Ulster Workers' Council ストライキ (1974年5月)
・ダブリン・モナガン爆破事件(1974年5月17日)
・アイルランド共和国軍(IRA) 休戦 (1975年2月9日~1976年1月23日)
・北アイルランド憲法制定会議 (1947年7月~1976年3月)
・United Unionist Action Council (UUAC) ストライキ (1977年)
・ハンガーストライキ (1981年)
・英愛条約 (1985年11月15日)
・Brooke / Mayhew Talks (1991年4月~1992年11月)
・平和プロセスに至る中での事件 (1988年-1993年)
・平和プロセス中の事件 (1993年-1998年)
・平和プロセス中の事件 (1998年-1999年)

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