なぜ、アンネフランクは2年間も隠れ家生活できたのか?

世界的ベストセラー「アンネの日記」。書籍となった日記は、ユダヤ系ドイツ人アンネがナチスドイツの迫害を逃れるために、家族とともに生活していた屋根裏部屋(実際は、家のひと区画)で書かれたものでした。アンネの日記は、13歳の誕生日に贈られた赤いチェックの日記帳とルーズリーフなどに書かれた原稿を元に、家族で唯一迫害を生き延びた、父オットーフランクによりまとめられました。

アンネとその家族は1942年7月6日、アンネの姉のマルゴーが労働キャンプへの出頭命令を受けた翌日に、隠れ家での生活に入りました。その後1944年8月4日に秘密警察に見つかるまでの約2年もの間生活しました。
オランダ、ヴェステルボルク通過収容所
オランダ、ヴェステルボルク通過収容所の展示物


同書を読んだ人なら一度は疑問に感じる、フランク一家と他の家族は、2年もの間見つからずにどうやって過ごすことができたのか。いや、2年隠れられたのだから、なぜ終戦まで見つからず隠れられなかったのか?など疑問に感じるはずです。理由は、協力者の存在、家の構造、一般市民のユダヤ人に対するシンパシーとドイツへの反感などではないかと思われます。

理由その1:協力者の存在

隠れ家生活は、協力者の存在なしでは成り立ちません。食料品をはじめとする生活必需品の供給が必要不可欠でした。そして、戦況、町の様子を知らせる連絡役が必要でした。

協力者となったのはアンネの父、オットーがジャムを作るためのペクチンを作る会社の従業員の4人でした。会社の経営を引き継いだヨハンネス・クレイマン、会社を支えてきたヴィクトル・クーフレル、事務員のベップ・フォスキュイルそして、女性従業員のミープ・ヒースでした。またミ―プの後夫となるヤンも協力者となりました。(夫のヤンは、レジスタンスとして、活動をしていました。)

従業員のすべてが協力者ではないため、秘密を共有する従業員たちは細心の注意を払い、他の従業員が帰宅後あるいは出勤前に会社と同じ建物にある屋根裏部屋に行き、それら必需品を届け、外部の情報などを伝えていました。

戦時中で物が不足したいた時期、食料品も配給制でしたが、隠れ家生活に入る前にオットーフランクが食料の入手場所などもアレンジし、また事情を心得ている八百屋、肉屋などの協力で、上記の4人の協力者はそれらの場所で、隠れ家での生活者の物資を入手していました。

協力者は、ユダヤ人をかくまっていたことが見つかれば刑罰の対象となるため、命がけの協力でした。フランク一家が、ナチスの秘密警察に連行されたときは、クレイマンとクーフレルの2人は、フォスキュイルとミ―プが巻き込まれないようにと、細心の注意を払ったといわれています。また、2人が女性ということもあり逮捕は免れました。2人はユダヤ人と同じ強制収容所にこそ連行されませんでしたが、強制労働に従事しています。

一家が、秘密警察に見つかってしまった後、床に散らばったアンネの日記を拾って集めて保管していたのはミ―プ・ヒースさんでした。戦後、家族で唯一の生存者である、アンネの父オットーに、その日記を手渡しました。ミ―プさんは、2010年に100歳の長寿を全うしました。彼女が隠れ家生活を支援していた最後の生存者でした。

理由その2:オランダ、アムステルダムの家の構造


オランダの典型的な家のつくり
オランダの典型的な家のつくり

オランダの特にアムステルダムの家の構造は特徴的です。この構造を肌感覚でしらない限りは、一家が隠れ住んでいるとは想像もできないはずです。

オランダの、とりわけアムステルダムの家屋は、道路に面する場所は狭く、奥行きが広い建物の構造。家の表側が狭い理由は、昔のオランダの税制の故。税は、その水路や道路に面する長さで換算されていました。

アンネ・フランク・ハウス(博物館)となっている場所は、フランク一家が実際に隠れ家として生活した場所です。元々は、オットー・フランクのペクチン工場でした。

隠れ家は、工場の建物奥、別館の3階と4階部分。3階部分はフランク一家の寝室と居間、洗面所があり、4階部分に他の隠れ家住人である、ファンダーン夫妻とペーターの部屋があります。

間取りは、こちらを参考に>> 角川つばさ文庫「アンネフランクをたずねて

場所は、アムステルダム中央駅から徒歩15分の距離と町の中心地に位置しています。そのため、人の通りは比較的多かったのではと想像できます。まさに木を隠すなら森にということでしょうか。

なぜ一家は見つかってしまったのか?

密告

何者かによる密告という説が濃厚です。その何者というのは、オットーの会社の従業員だったと言われていますが、オットーはその人物を公言することを避けています。もし、公言したらその人は一生、非難され続け、また命を狙われる可能性もあり、隠れて生き続けないといけないからです。

当時は、ミ―プたちのように迫害を受けていたユダヤ人助ける人もいれば、密告によって得られる対価のために当局にユダヤ人を引き渡した人もいます。

密告者は従業員の一人と言われています。上記の4人以外の従業員は、別館の3階と4階部分に人が隠れ住んでいるとは夢にも思いません。しかし、従業員は一日そこで仕事をしているのですから、屋根裏で隠れている住人がよほど気をつけないと、すぐに感づかれてしまいます。

密告されるには、屋根裏の住人の生活が誰かに気がつかれてしまうことを意味します。そのため、日中は、トイレも流さず、読書、勉強などをして静かに過ごしていました。一緒に生活をしていたペルス夫妻の騒々しい口論などもあり、一緒に隠れ住んでいる家族は肝を冷やしたようです。

従業員の密告説の他、考えられるのが隠れ家の人影を誰かに見られた。夜間のジャム工場が空き巣に入られたときに、屋根裏の住人の声を聞かれた可能性がある。戦中、空き巣に対する罪状よりも、ユダヤ人密告に対しては懸賞金が出たといいます。なので空き巣犯は、咎めを恐れることなく、当局に隠れ家の住人の存在を密告することができます。隠れ家協力者、ミ―プの著「思い出のアンネ・フランク」で、工場が2度ほど空き巣の被害に遭ったと記しています。

このように隠れて生活していたユダヤ人はかなりの数で、また戦後まで生き延びた人たちもそれなりの数いるようです。しかし、アンネたちの場合は“2年間”他のユダヤ人の場合はもう少し長かったのかもしれませんが、家のとあるひと区画から一歩も出ることなく、過ごしたというのは、想像以上に過酷なものです。しかし、戦争はいつかは終わり、この苦しい生活からいつかは解放されると希望があったからなのでしょう。

改めてアンネフランクハウスを訪問したいと思いました。

参考

アンネの日記を読んだ人は、「思い出のアンネ・フランク」がおススメです。
アンネの日記のサイドストーリーとして、そして第二次世界大戦のヨーロッパを生きた著者ミ―プ・ヒースの波乱の半生として読み応えがあります。


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