助け合いか、それとも依存か?お金に絡むフィリピン文化考

子だくさん、そして親戚づきあいの多いフィリピンは助け合って生活しています。しかし、よくよく観察すると助け合い、というか助けられる人が助けを必要とする人を助け続けるというようにも見られます。情けは人のためならず。それゆえに、結局「助け合い」となる場合もあるのかも・・・と思いつつ、しかし「依存」というケースも。

さて、フィリピン人社会でよく見る行為は「助け合い」なのかそれとも「依存」なのか。

フィリピン、バヤ二ハン
バヤ二ハン
フィリピンの地方では、まだ「バヤ二ハン」という風習が残っています。
写真は、家ごとの「お引越し」です
労働力の相互交換という習慣があります。
家の引っ越し、農作業など無償の労働提供がおこなわれます。しかし、これはお互い様です。


人々が助けを求めるパターン

特に親族が他の親族(兄弟姉妹)に対して助けを求めるケースがあり、その背景の状況があります。

ケース1. 学費の援助
フィリピンでは小学校は無料、高校も公立である限り無料ですが、私立の小学校、高校、そして大学は公立・私立を問わずもちろん学費を払います。しかし、学費が払えない家族もいます。

なぜ、親が子どもの学費を払えないのか?理由はいくつかありますが、単純に手取りの給与が少ないこと(ブログ「フィリピンって本当に安いの?フィリピンの物価感覚」)、それに加えて子どもの数が多いこと、親が働いていないこと、シングル・ペアレント等です。

教育により、将来の道が制限されてしまうのはフィリピンに限ったことではありませんが、フィリピンでは高校卒業のみでは、職を探すことは非常に困難です。なので、親は自らの経済状況が困難、あるいは実質無理と考えられても、親族に頼み込んでお金を工面してもらい子どもを可能な限り進学させようとします。

このような背景の中で、少々余裕がある家が甥っ子や姪っ子の学費の援助するというケースが目立ちます。無条件に支援するという人もいれば、条件付きとしながら全面的に学費の支払いを行っている場合もあります。条件というのは、4年できっかり卒業すること、そして一定以上の成績を収めること、会計士や看護師など卒業後即収入に結び付く特定の資格を取るように進めること等。

ケース2. 居候
「家がない」あるいは、住む場所はあるもののそれを維持するための「お金がない」というケースでは、親族の家に「家族ごと」居候というケースもあります。

居候は所謂パッケージ!です。「電気」「食事」時に「インターネット」などがついてきます。居候している家族は、少なからず経済的な貢献をしようと試みます。しかし、元々自宅を持てないほど困窮しているため、経済的な貢献は難しいため、労働で支払おうとするケースも。家の中の掃除、調理、洗濯等。一方、経済的な貢献も労働貢献もない居候もいます。

ケース3. 精神的なサポート
人々が助けが欲しいケースは、何も金銭的なことのみではありません。熱心な(カトリック)信者は、家族・友人・仲間たちの安寧や病気からの回復などを一生懸命、意識的にお祈りしてくれます。信心深くないなから、祈られてもね。と思う人もいるかもしれませんが、祈りが病気の回復によい影響を与えたという実験結果もあるようなので、精神的なサポート、ただ誰かに意識的に祈ってもらうということは非常に大きいようです。

ケース4.生活全般に助けを必要とするパターンー海外送金を通じたお金
海外で働いている、あるいは外国人と結婚して国外にいるフィリピン人は、フィリピンに送金することが期待されています。どんなに海外出稼ぎ者自体が困窮していても、家族、特に自国に居る「両親を助ける」という名目で月々お金を送ります。

送られたお金の使い道は、いろいろ。「学費」と限定していても、勝手に物を買ってしまったり、用途が絞られていないため、受け取った家族は計画なく使い切ってしまうというケースも。

ブログ「フィリピン海外就労者(OFW)の送金にまつわる問題

変化するフィリピン社会

資本主義社会システムの浸透によって、「助け合い(もしくは一方的に助ける)」ことが、金銭を媒介とし、そして限られた人の輪の中でのみ行われるようになりました。

現在のフィリピン社会では、上記の写真に見られるようなバヤ二ハンー家の建築・移動、農作業に絡んだ労働力の無償提供はコミュニティによっては皆無、見られるのは田舎の街にのみ限られます。大多数が自分の(あるいは貸与されている)田畑を耕し、自分の所有を明確にし、必要なサービスには金銭を支払います。また、かつてはコミュニティで道具の貸し借りが行われていましたが、今は各家庭で工具を持っており、貸し借りはありません。

また、以前はテレビやラジオなどがない家は近所の家にお邪魔してそれらを視聴していましたが、現在は「貧しい」と言われる家にもテレビやラジオ、あるいはスマート・フォン等があり、近隣住民の家の行き来もなくなりつつあります。

海外のフィリピンコミュニティの助け合い


今となっては、親族、それは遠い親戚ではなく親兄弟間での金銭を媒介とした助けを得ることに限られつつありますが、海外では少々事情が異なります。助け合いはオランダのフィリピン人のコミュニティに見られます。

困っている人がいたら何らかのかたちで具体的に助ける。時にご飯に招待し、心配事を共有し、助けられることはする。時には、高額ではないものの金銭的な支援もコミュニティから募り、サポートが必要な個人に渡すということもあります。祖国を離れたモノがお互いを助け合うというのは自然なのかもしれませんが、日本人同士であれば、恐らく個人の責任となると思います。

外国人夫・妻の反応

「依存」にすぎない。酷い場合は「怠けているから生活が大変になるのだ」等の声を聞きます。状況はそれほど単純ではありません。それらを無視して、外国人の立場でばっさりといい切ってしまうのは簡単ですが、自体は解決しないでしょう。

また、外国人夫や妻が、フィリピン人妻や夫にたいして「依存を助長させるから、それらの助けはやめるべき」あるいは「最小限にとどめ、最終的にはやめるべき」といっても聞かないケースもただただあります。そこから、夫婦げんかにも。

フィリピン特有ではない助け合い


日本でも私の親の世代ではもっと人々が助け合って生きていたように思います。長男長女は学校を卒業すると早くから働きに出て、弟妹を助け、また家にも仕送りをしていた家庭も多かったようです。親の世代で見たことがフィリピンでは今も繰り広げられています。
助け合い、そして周りに寄り添って生きる‐それは経済的な難しさ故だからでしょうか。

畏れ、寄り添う生き方

経済的要素の他に、宗教的理由は無視できません。特に国民の大多数を占める、カトリックの人たちの中には、多くを持つものは天国へは行けない、と考えている人も多いようです。実際、カトリックのミサでは、神父が「分け与えること」をしきりに人々に語りかけます。なので「助ける」側は宗教的なある種の恐れもあります。またそうした社会規範に支えられているために、社会的なプレッシャーもあります。

また、宗教心からくる他を憐れむ心があるのだと感じます。熱心なクリスチャンでなくても例えば道端の物乞い、特に年長者の物乞いを見たら痛みを共感し食べ物をあげたりします。寄り添う生き方を身体で学んで育っています。つまり、神への畏れと寄り添う生き方を学びながら育つのがフィリピン人といえるのではないでしょうか。

「助け合い」か「依存」か?

それは、わかりません。日本的な個人の責任に帰する環境で育てば、「依存」の一言で終わってしまいそうですが、フィリピンの文化の中で生きるものからすると「助け合い」であり、時には「神様からの助け」となります。持てる者が、持てないものに与えることが当然とされています。また、持っていても与えない人は、上記のような理由から気分もよくないので、最終的には助けざる得なくなります。

ただ、時に問題となるのは、助ける側もそれほど持っていない場合。自分の生活を犠牲にするケースもただただあります。日比のカップルでしばし聞くのが、(多くの場合)夫に内緒で妻がフィリピンの実家に仕送りをしているケース。しかも月数万円から10万円単位となるケースまであります。家族の期待に応えたい、フィリピン人妻と、日本での生活を守りたい日本人夫との間で軋轢がおこります。

じゃあ、どうすればいいの?

依存か、助け合いであるかを論じたところで、例として挙げたような実際の国際結婚のカップルの抱える問題は解決されません。持てる者が持てないものを助ける、しかもかなりの金銭的な負担を伴ってーというケースは、フィリピン人の間でも悩ましい問題ですが、外国人を巻き込んでの国際結婚では悩ましさと深刻さはその度を増します。

どうしたらよいのか?-徹底的に話し合うこと・・・しかありません。外国人夫や妻は彼らの状況を理解すること、フィリピン人妻・夫も外国人側を聞くこと。難しい場合は、両方の文化を知る人間に間に入ってもらい、話し合いをすること。そこで夫婦間の決めごとをするのがよいのではないでしょうか。

決めた後もフィリピン人妻や夫が多くのお金を送金してしまう場合は、合意の元で預金口座の共同管理をすること。ただ、まったく「助けない」というオプションはないので、そのあたりは外国人夫や妻は理解しておくべきでしょう。

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