私はこれまでひどく誤解されてきた、人生の捉え方が人と違うせいね。by イメルダ・マルコス
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2678205/Imelda-Marcoss-kiss-husband-celebrates-85th-birthday-Disgraced-former-Philippines-First-Ladys-solemn-visit-body-Ferdinand.html |
違いすぎるが故に、波乱の一生を送ったのだろうか、もしくは違う人生を送りたくて、人とは違う人生観をもったのだろうか。彼女の名言、いや迷言が多いが、それらの言動の謎を解く手掛かりが見つかる、ドキュメンタリーはフィリピン関係者は必見です。
美しさを武器にして
イメルダマルコスの若かれしころは、美しく人目をひく存在でした。実際にググってみると、若い時の写真がヒットしますが、鮮明ではないそれらの写真からも美しさが想像出来ます。美しさは恐らく幼少のころからで「容姿の美しさは、マリア様を彷彿とさせました。」と幼少期の友人に言わせるほど。ただ、生活は貧しく、洋服や靴を買うことができず軍が使用したパラシュートや敷布でつくった靴を使用していました。
レイテ出身の長身の美女は、親族をたよってマニラへ。今も昔も地方から、大きな夢をもって大都市に移住する人の流れは変わりません。マニラに移住してすぐに、男性にもてもてだったとか。「100人もの男性がアプローチしてきました」(イメルダ談)
銀行に勤めながら音楽学校に通い、様々なミスコンに出場してきました。中でも有名なエピソードは、ミス・マニラコンテストで、次点となった際、投票の異議を当時市長であったラクソンに訴え 「ミューズ・オブ・マニラ」を勝ち取ったこと。この事件は新聞でも大々的に取り上げられ、これによりマルコスはイメルダを知ったといいます。
マルコスとの出会い
マルコスとイメルダ (c) www.pinterest.com |
マルコス氏はイメルダ夫人の美しさに惹かれたと思いますが、美しい女性を自分のそばに置くことで、大衆に向けてのイメージがよくなると政治家としての計算が働きました。
イメルダ自体は、貧しい出自ですが、彼女の一族は、政治的に強い家であることを知っていました。さらに、イメルダも友人や知人から、マルコスは将来は大統領になる男とささやかれていたようです。
実録イメルダ・マルコス―フィリピン大統領夫人の知られざる過去
マルコスは事実婚をしているパートナーとその間に子どもがおり、奔放な男女関係を繰り返していたようですが、イメルダに猛烈アタックします。ちなみにドキュメンタリーでは、インタビューに答える女性が故マルコス大統領は決して愛人などを持ったことがないと証言しています。
ここで、お互いの利害が一致。結婚時のイメルダは25歳、マルコスは37歳でした。12歳差です。結婚は出会って僅か一ヶ月のスピード婚。結婚式はマグサイサイ大統領が立会人となりました。
「ァーストレディとして―マルコス大統領時代」から「亡命」と「帰国」
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「[フィリピン博物館] イメルダ夫人の靴」
首都圏マニラ、マリキナ市にイメルダ夫人の靴が展示されている博物館があります。彼女の贅を尽くした生活の片鱗を博物館の展示を通じて知ることができます。
「ドゥテルテ政権の大きな過ち―マルコスは決して英雄ではない!」
故マルコス大統領は亡命先のハワイで死去し、その後恩赦の故にその遺体が祖国に帰ることができましたが、墓地には葬られていませんでした。ドゥテルテ大統領によるサポート故に、故マルコス大統領の英雄墓地(libingan ng mga Bayani)が埋葬が決まり、それに対する反対運動が起こりました。
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