コレヒドール島で平和を願う:ジャビーダの虐殺記念式典

3月18日、ジャビーダの虐殺47回目の記念式典に参加すべくコレヒドール島に行くことになりました。

コレヒドール島にて
ジャビーダの虐殺はミンダナオ紛争が暴力に点火された1つの大きな事件。少なくとも28名(OPAPPの資料を参照)のミンダナオから軍に入隊した若者が、訓練の名目で呼び出され、最終的には無残に殺されました。その虐殺が起こったのはコレヒドール島。近隣のカビテ州の漁師が流されてきた遺体を発見し、事件が発覚。その事件が起こった日に式典を行うというのは4年前からイスラムの団体を中心に行われてきたことでした。



ここは日本人にとっても縁が深い土地。アメリカとの開戦後、フィリピンのバタアン半島陥落、1945年5年アメリカ・フィリピン軍兵士約13,000人が立てこもるコレヒドール島へ上陸、島を占領。マッカーサー将軍が逃れた後に残された兵士や米国人看護師等は無条件降伏を受け入れます。



その後、戦況は逆転し1944年10月レイテ島に上陸したマッカーサーは翌年2月にコレヒドール島に再上陸、屈辱を晴らした。日米軍の衝突で破壊された島の建物が今も残ります。



式典の会場は、オタマジャクシのような形の島、そのしっぽの先に近い場所。日本軍上陸地点の向かい側となります。南シナ海を見渡せる高台には、ミンダナオ平和公園の表示が。

式典は炎天下の中でしたが、おごそかに行われました。クリスチャン、イスラム教徒、先住民族を代表する祈りがささげられ、そのあとには前ARMMの知事の奥様で国会議員のSitti Djalia A. Turabin-Hataman氏(平和系団体のうちではAte ダダと呼んでいます)をはじめ、ミンダナオの暫定政府の知事等がスピーチ。涙ながらにミンダナオの平和を悲願しました。

それら政治家先生、フィリピンの和平交渉団のミリアム・コルネル氏たちも招かれた故でもありますが、ほかにママサパノ事件の余波もあり、ミンダナオの和平に関する動きがメディアの注目を集め、CNNフィリピン、フィリピンの主要な民放もこぞって取材。慌ただしいものでした。

式典最後に白いハトを放つ場では何故か私も名前を呼ばれ参加(汗)テレビにこそは映りませんでしたが、このフィリピンの歴史に残るミンダナオ和平の立役者たちと並ぶことが出来たことはとても意義深いもので
した。

どフィリピン国内の問題に何故私が・・・ですが、関わっているNGOの故です。

その式典と連動して行われるストリートパフォーマンスに呼ばれていたのですが、午前中の式典にも参加させてほしいと要請しました。理由は、ビコールの学生を連れていくことになっていたため。学生をしかもテスト期間中に連れ出すという大学教員をする旦那からはありえないことをしたので、その代わりにと少々主催団体に駄々をこねました(笑)。



学生たちよろこんでついてきてくれましたけどね(笑)、政治学科の学生たちテレビでしか見たことがない政治家先生たちにミーハーにはしゃぎ、涙ながらのスピーチに深く考えさせられ、慌ただしく一日を終えました。

いつも地理的に無視されやすい地方。
今回は主催団体に考慮いただき、ビコール地方の学生参加枠を貰えたのは大変有難いこと。そして、学生が短い時間にこうした式典を見聞きすることが出来たのは何とも彼らにとって大きな収穫でした。

しかし先週金曜日にマニラからタガイタイ、そしてまたマニラを経てビコールに戻ったのは月曜日。火曜日の夜には再度マニラへ。。。いやはや、こんな短い期間によくも陸路をこんなマメに動いたことか、と自らをほめたのでした。

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