日本で宗教の話をするととたんに距離を置かれるということなると思います。友人でとある宗派の宗教をカミングアウトしたら、途端に友人関係が途切れるということがあった聞きます。
大変大雑把で推測の域をでませんが、友人関係をある種「切った」あるいは「距離を置いた」人たちは、入会を勧められる、そしてその後高額なお布施(寄付)などを要求されるという実際の面倒くささ、それ以前に一つの神、その教理を信じると言いきる胡散臭さや、日本人の一般化できるかは分からないけど宗教観などから受け付けられず倦厭さするのだと思います。そして、私自身それらに対しては納得します。面倒くささ、胡散臭さ、宗教者の自己陶酔、一般人には分からない用語を使ったりする人たちに私自身出会い、嫌になりました。宗教と聞くとやはりどこか構えてしまう自分が居ますが、同時にここ数年何かと宗教というものを意識して、ある意味積極的に関わるようになった自分が居ます。これも自分形成のひとつとして自分自身のうちに進行形で起こっていることなのだろうかと理解しつつ、現時点での自分自身の立ち位置を探りたいと思いました。
旦那がカトリックであるため、強制はされていないものの毎週ミサに参加し、教理の理解に勤め、自分なりの理解を勤めています。しかし、私が知る限り一人を除いて、皆カトリックの家庭に生まれ、育ち、深く自分の所属するところを考えないままに成長してきた人たちの中にいて、自らの立場を時にどう理解すべきか考えたりします。
東京在住時、誰に薦められたわけでもなくプロテスタントの教会に通っていたことがありました。オフィスから歩いて約10分の教会では礼拝の後には聖書の勉強会などを行っており、(海外)出張、日曜日のイベントがなく、体力的に行ける日は顔を出していました。しかし、後に居心地が悪くなって通わなくなりました。聖書の勉強会の時に50代ぐらいの女性で、恐らく教会に長いひとなのでしょうが、勉強会のプリントを配布する時に、配布物は毎週必ず来る人にしか渡さないから、来週も来るようにと何度も念を押されました。ボランティアで教会の配布物を準備する手間や費用などを考えると言われることはもっともだったのですが、続けてこないと費用対効果を考えて「この配布物が無駄になる」と言われたように思われたのと同時に、既に深く信ずる人しか対象にしてないと思われ、遠慮することにしました。端的に居心地が悪かったというものですが(汗)。学んで、知って、深めて、信じる、そのはじめのプロセスでつまずいたようにさえ思われました。過剰な被害者意識でしょうが、それほど強い動機がなかったので、一緒に居たくない人と席を共にまでしてまで通い続けたくないと思いました。
その後、フィリピン人の友人から東京の自宅から一時間圏内にある、宗派を問わないキリスト教の教会があるということで、やはりそこにちょこちょこ行くようになりました。前体験のため面倒なことには関わらないようにするため、ミサが終わったらすぐに撤収していましたが、時に行われるイベントにはリラックスして通っておりました。振り返ると比較的緩やかなエントリーでした。その教会フィリピンのマニラにもあり、その後は旦那とともに近くにカトリック教会に行かない時に通っていました。地元のカトリック教会は全てタガログ語だったので(汗)英語で行われるミサは有難いものでした。
しかし、疑問は残ります。「宗教している人は偽善者だ」、言葉では、平和や愛など他人に益するような響きのよい言葉を使っているが、それは自分に酔っているだけなのではないか、自分の来世(死後)のためなのではないか、良き来世を生きるための信仰の域を出ないのではないか?と。しかし、そもそも自分の事で精いっぱいの人間が他人さまに何か出来ると言う考え自体がおかしいのであって、自分のために宗教を持つというのはごく自然ことなのではないかと、近頃は考えます。しかし、それだけでは、神様と私という縦のみの関係になってしまうため、特にキリスト教の文脈では神を中心とした他者との関係というものを大事にするということなのだと思います。他人に尽くすことは、その他人に生きる生ける神様に尽くすこと。しかし、そんなことを考えたり意識せずとももっと自然に人との関係を喜ぶことで、生きている今を喜び感謝するというのが気張りすぎずよいのではないかと思っています。
こちらに来てしばし教会で「カトリック教徒なのか?」と聞かれます。こういう質問が自分への責め、つまりカトリックではないのにミサに来ているということを咎められているように感じました。特に私に直接聞かず旦那にこっそり尋ねているので感じが悪い。私に直接聞いたらいいのに!今では開き直り「カトリックではないけど、それが何か?」とそういう質問のナンセンスさを少々咎めるモードで答え、「教会は人間の霊性を信じ、神と自分と他者を愛する人のために開かれていると理解している」と答えています。
数ヶ月前から日曜日のミサのあとコミュニティに裨益するためにイベントを行っております。オランダと言う世俗的社会環境にあって、同じ宗教を持つ人たちにとっては安心して神や仏という概念を用いて引かれることなく自分を表現できる、ある種の居場所作りですが、日曜日のイベントを知って参加したいけど、カトリックではない故に参加を躊躇している人に私は、「私自身は(現時点では)カトリックではない」ということと「教会自体はそれほど敷居が高いものでもなく、霊性を信じて大切だと思う人にはオープンなので、試しに来てみて、居心地がよかったら通い続けたらいい」と言っています。こんなご都合主義を真面目なカトリックの人の前で言ったら怒られてしまうように思いますが、それぞれ異なる環境で生きて、不幸にも幸いにも宗教などというものと縁がなかった人たちが興味を持った、その入り口を必要以上に狭くする必要はないと思いますし、その宗教に居続けなくてもその人が人生について深く考えたりする場が持てるということは、教会自体のメンバー数が増えなかったとしても最終的にはお互いにとってよいのではないかと思います。
今のところ、自分自身が「宗教」というものを自身のアイデンティティの一部と認識して居ないことを感じています。恐らくこれは一生一致せず、時に自身の中で相克するものとして現れるのかも知れず、一生この一点においては平和を感ずることがないのかもしれません。どこかで、宗教というものと自分自身が和解の日が来ることをひそかに願いつつもそれまは宗教者のコミュニティで元々の所属ではないことを気にかけず、厚かましく信じるところを追求したいと思います。
大変大雑把で推測の域をでませんが、友人関係をある種「切った」あるいは「距離を置いた」人たちは、入会を勧められる、そしてその後高額なお布施(寄付)などを要求されるという実際の面倒くささ、それ以前に一つの神、その教理を信じると言いきる胡散臭さや、日本人の一般化できるかは分からないけど宗教観などから受け付けられず倦厭さするのだと思います。そして、私自身それらに対しては納得します。面倒くささ、胡散臭さ、宗教者の自己陶酔、一般人には分からない用語を使ったりする人たちに私自身出会い、嫌になりました。宗教と聞くとやはりどこか構えてしまう自分が居ますが、同時にここ数年何かと宗教というものを意識して、ある意味積極的に関わるようになった自分が居ます。これも自分形成のひとつとして自分自身のうちに進行形で起こっていることなのだろうかと理解しつつ、現時点での自分自身の立ち位置を探りたいと思いました。
旦那がカトリックであるため、強制はされていないものの毎週ミサに参加し、教理の理解に勤め、自分なりの理解を勤めています。しかし、私が知る限り一人を除いて、皆カトリックの家庭に生まれ、育ち、深く自分の所属するところを考えないままに成長してきた人たちの中にいて、自らの立場を時にどう理解すべきか考えたりします。
東京在住時、誰に薦められたわけでもなくプロテスタントの教会に通っていたことがありました。オフィスから歩いて約10分の教会では礼拝の後には聖書の勉強会などを行っており、(海外)出張、日曜日のイベントがなく、体力的に行ける日は顔を出していました。しかし、後に居心地が悪くなって通わなくなりました。聖書の勉強会の時に50代ぐらいの女性で、恐らく教会に長いひとなのでしょうが、勉強会のプリントを配布する時に、配布物は毎週必ず来る人にしか渡さないから、来週も来るようにと何度も念を押されました。ボランティアで教会の配布物を準備する手間や費用などを考えると言われることはもっともだったのですが、続けてこないと費用対効果を考えて「この配布物が無駄になる」と言われたように思われたのと同時に、既に深く信ずる人しか対象にしてないと思われ、遠慮することにしました。端的に居心地が悪かったというものですが(汗)。学んで、知って、深めて、信じる、そのはじめのプロセスでつまずいたようにさえ思われました。過剰な被害者意識でしょうが、それほど強い動機がなかったので、一緒に居たくない人と席を共にまでしてまで通い続けたくないと思いました。
その後、フィリピン人の友人から東京の自宅から一時間圏内にある、宗派を問わないキリスト教の教会があるということで、やはりそこにちょこちょこ行くようになりました。前体験のため面倒なことには関わらないようにするため、ミサが終わったらすぐに撤収していましたが、時に行われるイベントにはリラックスして通っておりました。振り返ると比較的緩やかなエントリーでした。その教会フィリピンのマニラにもあり、その後は旦那とともに近くにカトリック教会に行かない時に通っていました。地元のカトリック教会は全てタガログ語だったので(汗)英語で行われるミサは有難いものでした。
しかし、疑問は残ります。「宗教している人は偽善者だ」、言葉では、平和や愛など他人に益するような響きのよい言葉を使っているが、それは自分に酔っているだけなのではないか、自分の来世(死後)のためなのではないか、良き来世を生きるための信仰の域を出ないのではないか?と。しかし、そもそも自分の事で精いっぱいの人間が他人さまに何か出来ると言う考え自体がおかしいのであって、自分のために宗教を持つというのはごく自然ことなのではないかと、近頃は考えます。しかし、それだけでは、神様と私という縦のみの関係になってしまうため、特にキリスト教の文脈では神を中心とした他者との関係というものを大事にするということなのだと思います。他人に尽くすことは、その他人に生きる生ける神様に尽くすこと。しかし、そんなことを考えたり意識せずとももっと自然に人との関係を喜ぶことで、生きている今を喜び感謝するというのが気張りすぎずよいのではないかと思っています。
こちらに来てしばし教会で「カトリック教徒なのか?」と聞かれます。こういう質問が自分への責め、つまりカトリックではないのにミサに来ているということを咎められているように感じました。特に私に直接聞かず旦那にこっそり尋ねているので感じが悪い。私に直接聞いたらいいのに!今では開き直り「カトリックではないけど、それが何か?」とそういう質問のナンセンスさを少々咎めるモードで答え、「教会は人間の霊性を信じ、神と自分と他者を愛する人のために開かれていると理解している」と答えています。
数ヶ月前から日曜日のミサのあとコミュニティに裨益するためにイベントを行っております。オランダと言う世俗的社会環境にあって、同じ宗教を持つ人たちにとっては安心して神や仏という概念を用いて引かれることなく自分を表現できる、ある種の居場所作りですが、日曜日のイベントを知って参加したいけど、カトリックではない故に参加を躊躇している人に私は、「私自身は(現時点では)カトリックではない」ということと「教会自体はそれほど敷居が高いものでもなく、霊性を信じて大切だと思う人にはオープンなので、試しに来てみて、居心地がよかったら通い続けたらいい」と言っています。こんなご都合主義を真面目なカトリックの人の前で言ったら怒られてしまうように思いますが、それぞれ異なる環境で生きて、不幸にも幸いにも宗教などというものと縁がなかった人たちが興味を持った、その入り口を必要以上に狭くする必要はないと思いますし、その宗教に居続けなくてもその人が人生について深く考えたりする場が持てるということは、教会自体のメンバー数が増えなかったとしても最終的にはお互いにとってよいのではないかと思います。
今のところ、自分自身が「宗教」というものを自身のアイデンティティの一部と認識して居ないことを感じています。恐らくこれは一生一致せず、時に自身の中で相克するものとして現れるのかも知れず、一生この一点においては平和を感ずることがないのかもしれません。どこかで、宗教というものと自分自身が和解の日が来ることをひそかに願いつつもそれまは宗教者のコミュニティで元々の所属ではないことを気にかけず、厚かましく信じるところを追求したいと思います。
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