実は身近な外国オランダ!日蘭の交わり400年

日本とオランダの交流は400年。長崎の出島、オランダ・ライデンにある博物館、陶芸品、場所・建造物・文化・言葉、由のある人物などの記録が両国に残っており、当時の交流の様子を知ることができます。
オランダ国旗
オランダ国旗


交流の始まり

オランダの教会内
時はさかのぼり、戦国時代、日本で布教を行っていたのはスペイン・ポルトガルからもたらされたカトリックででした。ポルトガル・スペインから来た宣教師が布教を行い、キリスト教に入信し、洗礼を受けたキリシタン大名なる人たちも存在しました。

キリスト教と同時に入ってきたその当時日本では生産できなかった品々がキリスト教徒ではなかった大名たちの関心を集め、更に布教が進みましたが、カトリック教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立が深まり、バテレン追放令、禁教令に至ります。(キリシタン大名、高山右近が棄教できず、すべての財を捨ててフィリピンに追放されたのもこのあたりの時期)
関連ブログ「高山右近を訪ねてーマニラ、パコ地区の高山右近像!

オランダが極めて商売に集中して布教活動などを行わなかったというのは日本にとって都合よいものでした。また、オランダは当時ポルトガルと戦争しており、日本での貿易を独占するのは、ポルトガルを追い落とす一つのチャンスでした。

日本での布教を行わなかったオランダ、「商売一筋」と宣言したといいます。島原の乱ではキリスト教徒(カトリック)に砲撃を加えるために大砲を提供したりと、政府側のサポートをします。

江戸時代、家康は外国人顧問として、イギリス人のウィリアム=アダムズ(三浦按針)とオランダ人のヤン=ヨーステン(耶揚子)を国際情勢顧問や通訳として迎えていました。ちなみに東京の八重洲は、そのヤン=ヨーステン(耶揚子)の名前からと聞きます。ヨーロッパからの船が入国を禁じられていた時期に長崎の出島での通商、顧問としての立場を与えられるなど、特別な地位を築きました。 

両国に残る400年の交流の軌跡

アムステルダム中央駅
アムステルダム中央駅
そうして始まった交流が続くこと400年、ここオランダの国立民俗博物館にはシーボルトが持ち帰った江戸文化のコレクションがあり、浮世絵、陶芸品、陶器、鎧などの美術・工芸・装飾品が見られます。国立博物館、オランダ海洋博物館などにも陶器・掛け軸など日本の文化を紹介する品々が展示されています。

司馬遼太郎の「街道をゆく」や他の書でも紹介されている日本語化したオランダ語は、特に医学用語が多かったようです。鎖国期における知識階層の蘭学の広がりとその影響によるのではないかと思います。ちなみに蘭学の研究対象は広いものの、おおよそ4つの分野、オランダ語の文献を深く理解するためにまず①言語分野オランダ語の習得とその研究、②医学、天文学、物理学、化学などの自然科学、③製鉄、測量術、砲術などの諸技術、④西洋史、世界地理、などの人文科学。中でも日本の医学を主とする自然科学の発達に大きく貢献していると思います。

かの『解体新書』は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書"Anatomische Tabellen"のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を江戸時代、日本で翻訳で杉田玄白によって翻訳・編集されたものです。外科医のメス、ピント、レンズ、モルヒネ、カタル、リウマチ、アンモニア・・・、日常的に馴染みがあるもので、カラン、カルキ、オテンバ、ペンキ、オルゴール、ハム、など意外と多いことに気づかされます。

治水事業のためオランダから技師が訪れましたが、オランダ人が手がけた治水事業は、福島県の安積疎水、利根川の治水事業。など、日本にオランダ人の功績が残っています。また、東京駅の駅舎はアムステルダム中央駅をモデルとしています。

今ではオランダと日本の接点は皇室の交流以外あまり見られませんが、振り返れば400年もの交流の歴史を持つ、意外と身近な外国であったと気がつきました。

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