嫉妬深いフィリピン人女性職員と仕事をして

これはフィリピン初滞在時の話。

20代、経験こそが財産と自ら志願して海外オフィス駐在を希望し、条件付きながらも念願かなって派遣される地となったのがフィリピンでした。

参加者数の多いワークキャンプを2本続けてこなして、ひと息ついてからフィリピンでの生活が始まりました。

当時、フィリピンのオフィスは立ちあがって暫くたつもののアドミンの部分が弱く、フィリピンと共同してプロジェクトを行う側としては不安の多いため、フィリピンでのミッションをこなしつつもそれらをこっそり手伝う心づもりでした。

ちなみにフィリピンのメインのミッションは当時行っていたプロジェクトの調整、懸念していたプロジェクトなどもあり(具体的には申し上げられませんが・・・)それを日本から問い合わせても何の音沙汰ものない!という理由もありました。

そんなこんなで始まった滞在でしたが、当時のオフィスにはインターネットも、電話もなく!!メールのチェックに、また電話をかけにいつも外に行かねばなりませんでした。他にも問題盛りだくさんでしたが、問題が多すぎて・・・書ききれません(汗)

そんなこんなでも仕事はせねばならないので、大学に務める友人のオフィスを時に間借りしながらの仕事と全く作業を出来る場所を探すのも一苦労でした。当時の友人たちには今でも非常に感謝しています。

日本人であるということもあり、そうして仕事をしていると、目立ちたくなくても目立ってしまいます。ある日、現地の理事がなんの気なくフィリピンのスタッフに言った「彼女からいろいろ学んだらいい」という一言が女所長の気に障りました。

何故、そう思ったかって?
その日を境にあからさまにいやがらせをされた+宣戦布告のようなものをされたからです。
”宣戦布告”は、私が作業している所にやってきて何ら文脈なく「私はフィリピン大学で、マーケティングを学ぶ予定なのよ」と一言。マーケティングは私の当時の日本のオフィスでの立場でした。つまり、私の理解では「私はフィリピン大学(という最高学府)で学べるほどのエリートなのよ!あんたなんかからまなばないわ」・・・別に私はだれにも私から学べなんて頼んでいませんけどねぇ。。。むしろ私が学びたくて来ているのだから・・・理事のいらぬ一言も、彼女の宣戦布告も意味不明。そんな感じで一方的に喧嘩を売られたのでした。


厭がらせその1
スタッフミーティングのフル・タガログ語化。話せない私が悪いのですが、それまで英語でしていたものをその日を境に・・・
隣のスタッフに通訳してもらっていたのですが、そのスタッフ女所長に制止されていました。

その2
あらぬ噂を流す。また、人のプライバシーを吹聴してまわり、私の評判をおとそうとする。あらぬうわさというのは、私が男漁りしている、○○と付き合っている云々。そんなことが噂されていると2本のスタッフに言ったら、爆笑されましたが・・・・(汗)爆笑するのもどうかと思いますが!誰と付き合うそぶりもなかった20代、こんな話は私をよく知るスタッフにはギャグとしか思えなかったようです(汗)

その3
アメリカの本部の関係者が来る時には絶対会議日程と場所を教えない。アメリカの本部と用事はありませんが、こまったプロジェクトをどうしたものか、相談したいのに日程を合わせられず苦労しました・・・

等々・・・
私、どんだけ嫌われたものか!

しかし、年若く血気盛んな私は、「喧嘩上等、ブス(女所長)に次に会ったらぼっこぼこにしてやる!」と言っていたら、ついぞその女所長私が帰国するまでの2カ月ぱったり私の前に現れませんでした。その言葉を聞いてなのか、否かはわかりませんが・・・

その間も、冗談のセンスのないスタッフが第二次世界大戦中の日本人の蛮行をギャグるなどもあり、対応にこまりました。

”すばらしい“人たちとの出会いで、フィリピンの国のイメージは最悪なものとなりました。

心の中で「ブス、次に会った時にはしばいてやる!」と思いましたが、その女性所長は様々な問題を起こし、結局役目を外されました。問題の内容は私の想像通りでした。。。

2度と、こんな国来たくも、関わりたくもないと思ったのですが、まさかのちに勉強と仕事、そして自分の結婚相手とここで出会うことになるとは・・・

何かその女所長に感謝することとしては、①人間自分のプライドのためにここまでやれるんだ~という、人間の悪意なく行える行為のレベルを知れたこと②何が人を刺激し、行動に駆り立てるのかわからない→注意深く人と付き合うべき・・・ということを学びました。

20代でこうした刺激的出会いを果たしておいて良かった?です。







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