異文化で生活する上で、またその社会を観察していく上でいつも考えるのが「今いる時分からどうやって自由になるのか」ということです。
今の「自分」と言われるものの核は、これまでの時間と経験の蓄積で出来ていて、決してニュートラル(中立)になれません。そして、それを自覚するもののいつもこの枠から物事を考え、見つめ、発言、行動します。異文化で生活するとこの自覚は更に強くなります。
ニュートラルになれない自覚は大切なものの、そこに居直るわけにもいかず、どうしたものかと考えます。
ちなみに私のものの見方が“典型的”な日本人かというとそれも違うわけです。過去数年異なる国で生活し、自分がちょっとずつ変わっているのだろうと思います。それは同じ場所でずっと過ごしてきた以上にドラスティックな、異なる文化圏の環境によりある種強制された変化だと思います。
それでもやはり「自分」と自分が経験したこと、いた場所、慣習、その他もろもろで状況を観察し、判断し、行動(言動)するという意味では完全に自由にはなりません。
そこから抜け出すために「比較」して、特徴を掴み、何が不偏的であるのか探らざる得ません。虫眼鏡で今いる場所を見ながら、望遠鏡を使い自国を見る。違いは何か、不偏性は何か。
そうしながら、薄い紙程の厚さの変化・経験を重ねながら今日も田舎で生活します。気がついた時にはきっと自分の核となって、ゆるぎないとされていたものが変化しているかもと良くも悪くも期待しつつ。。。
今の「自分」と言われるものの核は、これまでの時間と経験の蓄積で出来ていて、決してニュートラル(中立)になれません。そして、それを自覚するもののいつもこの枠から物事を考え、見つめ、発言、行動します。異文化で生活するとこの自覚は更に強くなります。
ニュートラルになれない自覚は大切なものの、そこに居直るわけにもいかず、どうしたものかと考えます。
ちなみに私のものの見方が“典型的”な日本人かというとそれも違うわけです。過去数年異なる国で生活し、自分がちょっとずつ変わっているのだろうと思います。それは同じ場所でずっと過ごしてきた以上にドラスティックな、異なる文化圏の環境によりある種強制された変化だと思います。
それでもやはり「自分」と自分が経験したこと、いた場所、慣習、その他もろもろで状況を観察し、判断し、行動(言動)するという意味では完全に自由にはなりません。
そこから抜け出すために「比較」して、特徴を掴み、何が不偏的であるのか探らざる得ません。虫眼鏡で今いる場所を見ながら、望遠鏡を使い自国を見る。違いは何か、不偏性は何か。
そうしながら、薄い紙程の厚さの変化・経験を重ねながら今日も田舎で生活します。気がついた時にはきっと自分の核となって、ゆるぎないとされていたものが変化しているかもと良くも悪くも期待しつつ。。。
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