高山右近を訪ねてーマニラ、パコ地区の高山右近像!

高山右近という人物をご存じでしょうか。キリシタン大名として、17世紀の日本のクリスチャンに影響を与えた人物、1615年に波乱の生涯をここマニラで閉じました。マニラ市パコに彼の銅像が建てられています。
マニラ、パコ地区の高山右近像
マニラ、パコ地区の高山右近像
背後は今は使われていない国鉄パコ駅
現在のパコ駅は、ここから2~300メートル先にある


高山右近さんてどなた?

高山右近は、戦国から江戸時代初期の武将、代表的なキリシタン大名。1552年に友照の嫡男として生まれ、12歳で洗礼を受けました。洗礼名はユスト、ポルトガル語で「正義の人」。

信仰を貫いた右近
右近は信長に認められ高槻城主としての地位を安堵され、「本能寺の変」後には、豊臣秀吉から明石城主に抜擢されました。しかし、秀吉は天正15(1587)年、バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫りました。右近は領地と財産をすべて捨て、信仰を貫きました。

マニラ 高山右近
高山右近とは何者か、誰がモニュメントを建立したのか?説明が書かれています。
その後しばらくは小西行長に庇護され、のち天正16年(1588き年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴きました。右近は金沢に26年間滞在し、金沢城の築城や茶道文化の興隆に大きな役割を果たしたといわれます。

国外追放、そしてフィリピンへ
江戸幕府が成立しキリシタンへの弾圧はさらに強まり、右近らの国外追放が決定されてしまいました。慶長19(1614)年10月、右近とその一同は長崎からフィリピンへと出航しました。約40日間の船旅は困難を極めましたが、マニラでは祝砲をもって迎えられたようです。



旅の疲れ、そして慣れない気候のためかマニラ到着から40日ほどで右近は亡くなります。イントラムロス内の聖アンナ教会で葬儀が行われました。
亡骸は、サンタ・ アンナ教会の近くに新築されたサン・ イグナシオ教会に移されました。その後、サン・ イグナシオ教会は太平洋戦争で破壊され地下の納骨堂も破壊されたので、遺骨が散逸するのを恐れたイエズス会は遺骨をケソン市の北にあるイエズス会の修道院の墓地に1945 年に移したと調べによってわかっています。*1

歴史的評価は、その立場により別れるところで、キリスト教から見ると日本にキリスト教を広げる一役を担った人物とされ、一方では仏閣の破壊等を行い領内の仏教が一時衰退したとも言われます。

2015年は右近の没400周年にあたり、聖人への列福への働きかけをしているようです。
右近の像は、かつて日本人村が置かれていたデラオ地区に建立されました。同地区は、かつては日本から移住した多くのクリスチャンが生活していたといいます。

マニラの高山右近像への行き方

フィリピンの鉄道 パコ駅
パコ駅
高山右近象がある場所はパコ駅から歩いて5分という距離。パコ駅を背にして、キリノ・アベニュー(かなり大きな通り)を渡り、右折し直進して暫くすると小さな公園が見えてきます。そこが、Plaza Dilao.公園の中央に像と碑文があります。

キリノ・アベニューを挟んで、旧パコ
駅前からplaza dilaoをみる
タクシーで行く場合は、運転手に「Plaza Dilao公園」、それでわからなければ「旧パコ駅」と伝えるとよいでしょう。高山右近像と言っても恐らく運転手は分からないと思います。また像はパコ公園にはありませんので注意です。
ジプ二ーなどの利用も可能ですが、この地域は入り組んでいて少々複雑なためあまりおススメはしません。

訪問に際して、日中にグループでの訪問をお勧めします。大きな通りに面していますがゴミも多く、あまりよい雰囲気とは言えませんでした。

親族の集まりで同地区近くを訪れた際に立ち寄ってみることにしました。二度目の訪問です。親族宅からは徒歩15分の距離でした。幹線道路を通る車やトラックの埃をかぶりながらも右近像を発見、あまりにぽつんと、そして突然に建っており驚きました、小さなフィリピンと日本のつながりを発見することができ、ちょっと嬉しくなりました。

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*1 「マニラにユスト高山右近の墓( 遺骸) を求めて!」
http://www.hi-ho.ne.jp/luke852/ukon/manila_by_Suzuki.pdf

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