一人ひとりの「シベリア抑留記」− 祖父のシベリア抑留記録という個人の記録から見る戦争

「シベリア抑留」という言葉を聞いて、ピンとくる人はどのくらいいるのだろうか。おざわゆきさん「凍りの掌 シベリア抑留記」が「父さんのシベリア抑留記(仮)」として、NHK BSプレミアムで8月に放送されることでまだ注目を集めそうではあるものの、著者自身も歴史でそうしたことがあったことを聞きかじり、東京の大学在学中に近隣の博物館でこのテーマの展示が行われていたため展示会のお知らせポスターやバナーでこの言葉を頻繁に目にしていたこと、そして著者が生まれる前にすでに他界している母方の祖父も抑留経験者であるということぐらいです。

親族に経験者がいるということはまれなことではなく、聞けば、友人の祖父も同様の経験をされたとのこと。実際日本人抑留者の数は約57万人と当時の人口7,199万から換算すると0.7%と多く、また約5万5千人が飢餓や寒さで亡くなり、その身元の全ては明らかになっていないことに改めて驚きます。送られた先はシベリアとひとくくりにされているもののその範囲は広くその場所は、内モンゴル、中央アジア、コーカサスから遠くはバルト三国にも及んでいました。

身内の経験者から、ぼんやりと興味を持っていた史実でしたが、主な抑留先はロシアと地理的にも遠く、ロシア語が理解できないことから、心理的にも遠く感じていました。同時に祖父はシベリア抑留経験者であると聞くものの「シベリアっていうけど、どこ?」という質問には答えられない、親族である我々すら事の詳細を知らないことに対する少々ストレスを感じていました。経験者は抑留中のことは話したがらないということを聞いたことがありますが、まさにそうした理由もあったのかもしれません。実際、母も祖父存命中がそれらのことを話したがらなかったとのことでした。

しかし、旧ソビエト連邦の一員であった、ジョージアに仕事で赴任し、トビリシにある日本人の慰霊碑を訪問し(ブログ「[ジョージア] トビリシ日本人慰霊碑ー祖国への帰還を望んだ人々」)、地方で日本人が強制労働させられていたという場所を現地の友人から知らされ、この機会を逃したらもう一生祖父が経験したというシベリア抑留に触れることはないのではないかという思いがよぎり何かをせねばと思うにいたりました。

トビリシ市内にある日本人慰霊碑
トビリシ市内にある日本人慰霊碑

シベリア抑留とは

そもそもシベリア抑留とは何であるのか。シベリア抑留とは、第二次世界大戦の終戦後、旧ソビエト連邦による武装解除された元日本兵を捕虜とし、労働力として移送隔離し、長期に渡る抑留生活と奴隷的労働を強いて、多数の人的被害を生じさせた対する日本側の呼称です。英語では、Japanese Prisoners of war in the Soviet Union(POWs)と呼ばれています。なお、日本以外にはドイツ、ハンガリー、オーストリア、チェコ・スロヴァキア,ポーランド等の国々の国民も多く捕らえられて強制労働に従事していました。

「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」によると、領内73箇所に収容所があり、各収容所には多い所で2万人の抑留者が労働し、また多いところで確認できる限りでは、2,000人から3,000人の死傷者を出したと記録にありました。それらの死者は、過酷な自然環境・過酷な労働と飢えによるものです。

資料の取り寄せ

そのような記述を読みながら更にインターネットでリサーチを続けていくと、ロシア連邦政府等から提供された資料の写しを厚生労働省の厚生労働省社会・援護局援護・業務課 調査資料室 調査係から取り寄せられることを知るに至ります。日本に住む家族に書類の取り寄せをお願いしました。

なおこの書類を取り寄せられるのは、本人か身内(遺族又は家族による請求の場合、抑留された方との続柄が確認できる戸籍書類を添付)に限ります。かかること2か月ほど、日本の家族から資料が届いたという知らせを受けました。枚数が多いもののスキャンを送ってもらいました。

資料から知る祖父

届いた資料は24ページ程で、10点の資料には、抑留者名簿(写)訳、個人資料(写)、個人資料訳、抑留者登録カード、抑留者登録カード(訳)所属部隊名簿、身上申告書、復員人名表、所属部隊略歴、ロシア連邦全体図がありました。なお、個人資料(写)はロシアから入手したそのままの資料の写しを貼付しています。

全ての資料がとても興味深いものでしたが、特に会ったことがない祖父に関する事実情報にまず目が行きました。身体的特徴、生年月日、兄弟の有無、理容師だったと聞いていたものの、そのように資料に書かれていた事実を確認することができました。

また、祖父は召集により軍に所属することになりましたが、その時期は1944年であったこと、いつどこで捕虜になったのか等です。軍の行動に関する記録は別途防衛省等に尋ねないといけないとのことであるが、所属部隊名から足取りを追うことが容易になりました。

祖父は何をしていたのか

ロシア語が堪能な友人の助けをかりて、祖父が送られた施設で何が行われていたのか、どんな労働に従事させられていたのかを調べるものの、さしたる記述を見つけることが出来ませんでした。他の記録から推測するに、鉄道の建設等の肉体労働や、インフラ整備等であろうことが推測されますが確証を得るには至りませんでした。

抑留経験者による証言から

捕虜労働の内容は多岐にわたっている他、慣れない重労働、給養の粗悪さ、過酷な自然環境(冬場は零下30−40度にもなる)、仲間の死等あらゆる苦難があり、拘留者を苦しめました。祖父の話を直接聞くことはできないけど、NHKのアーカイブでの話から、ソ連兵への恐怖、収容所内での思想教育、日本同士の取り調べ、吊し上げ、軍隊を離れてもなお残る軍での上下関係、とにかくバタバタと人が亡くなり、その遺体を山中に投棄せねばならなかったこと等精神的にも追い詰められ、生きる気力を失う人もいたといいます。これらの証言は、アマゾンで調べると多数の書籍を見つけることができます。上記にご紹介した「凍りの掌」等もその代表的な作品と言えると思います。

祖父の個人史から国という問題ーシベリア抑留と国際法規とソ連の対日戦争の経緯

専門外ですが、シベリア抑留と国際法規の問題にも少々触れないといけません。抑留者は戦争捕虜です。捕虜に関する国際法規は、国際慣習法と「陸戦の法規慣例に関するハーグ条約(1907年)」、「俘虜の待遇に関するジュネーブ条約(1948年)」、「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約(1949年)」により、国際法上の権利と義務を有する主体として明確に定められています。しかし、抑留者たちは、日本とソ連両国が国際法上の地位を尊重しなかったために、不当な扱いをうけることとなります。

ソ連の対日戦争の経緯

1941年4月 日ソ中立条約の締結(5年間有効であったが、1945年4月に同条約の明年4月の起源満了後延期しないことを通告)
1945年2月 ヤルタ協定(米英ソ)
(密約内容)1.南樺太の返還と千島列島の引き渡しを要求、2.日ソ中立条約を破棄して、ドイツ降伏3ヶ月後に対日参戦することを約束
1945年8月9日 ソ連の参戦
1945年8月14日 ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣告)の受諾
1945年8月19日 日ソ停戦会談(ソ連側の一方的通告で、捕虜の扱いについての交渉は無い)
1945年9月2日 日本が降伏文章に調印、ソ連の軍事行動の終結

ソ連はポツダム宣言の第9項には「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活できる機会を与えられる」とあるが、これを無視し捕虜を長期拘留した。

国家補償はどうなっているのか

シベリア抑留者に対する国家補償は幾度も議論としてあがっており、第154回国会の請願においても抑留中の給養費、抑留中の労働賃金は支払われるべきという実定法及び「国際人道法」による補償を求めるほか、これまでに幾度もこの問題の解決を試みたものの解決には至っていないようです。

まず、日ソ共同宣言(1956年)で、戦争での損害賠償権をお互いに破棄しています。破棄することによりシベリア拘留の帰還者とその遺族が未払いの労働賃金等のソ連への請求が不可となる一方、被害者は「ジュネーブ条約」によって自国政府に請求が可能であると考えられました。

しかし、終戦後30年以上経た1981年、全国抑留者協議会が未払い賃金の支払いを請求する裁判をおこなうものの敗訴しています。理由はいくつか挙げられていますが、上記に述べたジュネーブ条約成立以前に原告が帰国していたこと、自国民捕虜補償が光線諸国の一般慣行であったとは言えず国際法が成立したとは認められない等の理由でした。その後も訴訟が起こるものの敗訴しています。その後、政府・与党はこの件に関する立法を検討、「平和祈念事業特別基金」で10万円の慰労金と銀杯の贈呈を行ったものの、法的根拠に基づく国家補償は行われておらず、根本的な解決には至っていません。

ジョージア中部の町
ジョージア中部の町

祖父の個人史から見るシベリア抑留

資料を厚生労働省から取り寄せることによって、著者と過去の戦争が祖父の経験を通じて繋がっていることを実感します。そして、ブログ「故郷を想う骨 -フィリピンの遺骨収集」で受けた印象と同じく、戦後処理はまだ終わっていないことを痛感します。何があったのかを知りたい、祖父がどのような経験をしたのかを知りたいという祖父への好奇心、一方で、学問として「紛争解決」を学んだものとして、何十年前以上にも前に終結した戦争、しかしロシアと日本の間では終戦のための条約は1951年のサンフランシスコ講和条約への調印をソ連が拒んで以来未だに締結されておらず、それらをふくめて祖父の足取りを探る試みはもう少し続きそうです。

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