「神のいつくしみの主日」のミサに参加:宗教について考える

復活祭*から最初の日曜日は、イエス・キリストが罪びとである人類のために十字架に架けられたことを記念した「神のいつくしみの主日」という特別な祈りと、ミサが行われます。夫がカトリックなので、毎週ミサに参加しており、こうした行事にも可能な限り参加しています。

The Divine Mercy of Jesus
神のいつくしみの主日の祈り、ミサのため集まるフィリピン人、ロッテルダムのアフリカ系コミュニティ



*十字架にかけられたイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な日。


The Divine Mercy of Jesus (神のいつくしみの主日)の起源

ポーランドの修道女ファウスティナ・コヴァルスカ(Saint Faustina Kowalska)*が修道院の自室で、1931年の2月22日の夜に、イエスが白い衣をまとい、赤と青の光線を彼の心臓の部分から放射している姿を見ました。イエスは、目の前に現れたそのイメージを描き、言葉「イエスよ、私はあなたに信頼します(We trust in You.)」を伝えよといいます。そしてこのイエスの絵が尊重されることを望むと告げたそうです。

教会の入り口に掲げられた横断幕とイエスキリストのイメージ、
この写真の絵は、フィリピン旅行者がカレンダーや置物などでしばし目にしていると思います。


静かに広がっていった、「神のいつくしみの主日」は教皇聖ヨハネ・パウロ2世によって2000年に定められ、公式的カトリックの行事に組み入れられました。

*2000年4月30日に聖人に列聖されました。聖人とは、カトリックで、生きている間にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人たちです。フィリピンでは、サンロレンソ・ルイスと2013年に列聖に加わったペドロ・カルンソッドがいます。


カトリック教会を中心として広がるフィリピン人コミュニティ


オランダの大きな街には、必ずフィリピン人のコミュニティがあり、そのコミュニティはカトリック教会を中心にできています。世俗化して久しいヨーロッパの国では、毎週日曜日に教会に足を運ぶひとはごくわずか、そして教会に通うのはご年配の人、教会の建物は飲食店となったりして、本来の目的とは異なる用途で使われていることがただあります。そんな教会(カトリック)を盛り上げているのが在オランダのフィリピン人。年配者だけではなく、中高年、青年、子どもたちも教会に通います。

芸術的な装飾が美しいカトリック教会




著者の生活するハーグでも毎月2回(第2、第4土曜日の午後6時*)、フィリピン人神父によるカトリックミサが行われています。他の地区も同じく、月に2回、あるいは1回とミサをフィリピン人を中心に行っています。ですので、讃美歌もフィリピノ語、飛び交う言葉はタガログ語、ビサヤ出身のフィリピン人が多いので、セブアノ語もよく聞かれます。

このカトリックにとって貴重な日を祝うため、ロッテルダムのカトリック教会へと足を運びました。ハーグや他の地域との合同祭礼です。

「神のいつくしみの主日」のプログラム
歓迎の辞にはじまり、「神のいつくしみの主日」の起源・その意味の説明、聖なる時間(お祈り)、告解*の時間、3時の祈祷(イエスキリストが昇天されたといわれる時間)、ミサ、交流。

今回は、フィリピン人だけではなく、アフリカ(恐らく、ケニア出身者多し)、イランのカトリックも参加。そのため、聖なる時間の際の祈りは、英語、フィリピノ語、アラビア語、おそらくスワヒリ語、ラテン語となり、またミサにアフリカ的な要素を含めて、パーカッションの軽快なリズムでステップを踏みながらの入場と、にぎやかな祭礼となりました。




通常、フィリピン人コミュニティの主催するミサは、フィリピン人神父を招いてのものとなりますが、今回はアフリカ系の神父たちによって行われました。これは、フィリピン人が、フィリピン人のコミュニティの外に目を向け、よりオープンになってほしいという願いがあったからと、後々主催者と話した時に聞きました。

*告解:罪の赦しを得るための儀礼や、告白。カトリックでは、神父が信徒の告白を聞きます。ここでいう「罪」とは、とある行いや心の状態によって神の愛から遠ざかった状況が作りだされたこと。それを回復するのが告解の本来の目的です。
お祈りの時間と同時並行で、希望者のみが行います。

非信者の感想
アンチではなく、単純にカトリックではない(洗礼を受けていない)立場の者、非カトリック教徒として、午後1時40分に始まったプログラムは午後5時半に終了したプログラムは濃かったです。カトリックの教義については本を読み、神父さんや旦那に聞きつつ概要は理解しつつあるものの、深くは知らないことが多いので、今回のプログラムでは知らないことも多く体験しました。

カトリックのミサは長い期間ラテン語で典礼を行っていましたが、1960年代から、現地語でミサを執り行うことになりました。そのため、ご年配の人はラテン語での祈りや讃美歌をまだ覚えています。

親切なことにプログラムで祈られる祈り、讃美歌、読まれる聖書、などA4サイズで約20ページにわたるものが準備されていましたが、皆が知る祈りは省略されており、覚えきっていないわたしは思いだせるところのみ復唱。まだ、カトリックになりたい!とは心から思わないものの、祈りの意味を深く理解することは必要だと痛感しました。

今回頂いたロザリオ、大切にします




また、今回はロザリオ(祈りに使う数珠のようなもの)も無料配布されました。ロザリオは使用前に司祭などから祈祷や祝福を受けます。それもプログラムに含まれていました。祈りの後に、信者に聖水を受けるのですが、その方法が独特で不謹慎にも笑ってしまい、笑いをこらえるのに必死でした。その様子を見て、旦那にも笑いが感染。真面目な場なのに・・・

爆笑の理由は、聖水を掛ける杓子のようなものがフィリピンとはだいぶ異なっていたのみならず、トイレの便器を洗うブラシの形に酷似。しかもバケツにそのブラシを入れて、水を振りまいている様子に、どうしてもこらえ切れませんでした。後ほど、旦那に聞いたところ、旦那も「あんな道具」ははじめてみる、とのこと。


宗教を理解する必要性


どの民族にもある種、宗教性のようなものがあり、それを理解し、それを文化の中に取り込んでいます。それは時に一神教のような明確な教義と信仰の対象をもって顕現しないので、なんだかもやっとしていると思いますが、そんな「もやッ」としたものを合わせて宗教であると私は思うので、日本人にも宗教(心)があると思います。ただ、組織団体への所属という面に宗教の意味を限定してしまうと、日本人はある種「無宗教」となるのでしょう。

そうしたものを理解することで、世界の広がりやつながりを見られると私は感じています。なので、フィリピンでは毎週金曜日にイスラム教徒のコーランの勉強会に参加できる時には参加し、山岳地域に行けば先住民族の風習や彼らの取り行う行事に参加し、また意味の説明を受けてきました。

また、自分の人生を豊かにするためにそれらを理解する必要と同時に、フィリピンや現場で働くには人々の宗教性・精神性を理解する必要があります。彼らのやっていることを「尊敬する」ということも大切ですが、私はもう一歩進めて、可能な限り彼らの世界を理解できたらと思っています。そんなこんなで、カトリックの教会にも通っていますが、自らの宗教性の啓発に関して、道のりは長そうです。




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