フィリピンで「死刑」再導入か?(2)― 国民の反応

下院議員の多数の投票、このまま可決されるのでしょうか。

国民の反応

カトリックという宗教的素地があるため、日本のように大多数が死刑容認、あるいは積極的な賛成とはなっていません。
神の罰とは公正に下されると考えている人もおり、例えば容疑者が刑をかろうじてのがれたケースがありましたが、その容疑者は後日事故で亡くなりました。新聞の記事は、神の罰は公正に下されたと締めくくっています。
上院での決議の前に、NGO,教育機関や宗教機関特にカトリックは、デモを行っています。

フィリピン死刑反対のデモ 神父
フィリピン死刑反対のデモ 神父たち
#NotoDeathPenalty アテネオ大学ナガ校 
(c) Marlon Valles Razon


死刑再導入反対の理由
一般的、そしてフィリピンという文脈から考えた死刑制度再導入反対の理由をまとめて見ました。

根本的な思想・信条の故

カトリックが大半を占めるこの国で、この思想・信条を理由にして反対する人たちは多く、死刑制度反対のデモには神父や修道女なども参加しています。

神父や修道女個々人の見解はあるかもしれませんが、罪を犯したものはその罪から逃れることはできない。そして、いのちに関しては神に属するものであり、これに対して人間が手を加えるべきではないとし、犯罪人を罰するためにその生命までを奪うべきではないと考えています。犯罪者も人間である限りつねに改心の可能性があり、それが否定されたり奪われることがないようにしないといけない。

非宗教者であっても、死刑を残虐であり、非人道的だと考えます。
フィリピン死刑反対のデモ
フィリピン死刑反対のデモの様子
#NotoDeathPenalty アテネオ大学ナガ校 (c) Marlon Valles Razon

実際の効果への疑問―死刑に犯罪抑止力があるかどうか

死刑の抑止効果については、実証的・科学的根拠は存在していないと言われています。また、死刑の有無にかかわらず犯罪者は人を殺傷します。自殺願望から犯行に及ぶ者にはむしろ誘発性を持ちます。

フィリピンにおいては、現政権の麻薬対策の恐れから犯罪者が次々に投降しているしていますが、このような状況は極めて異常です。しかもこれは、制度としての死刑ではなく、”麻薬調査”の一環として”結果として”犯罪者が亡くなっており、この強権的麻薬対策には多くの批判が集まっています。


人間が犯す間違いへの恐れー誤判・冤罪への恐れ

冤罪の可能性が常にあります。冤罪による死刑は死刑制度が生み出す究極の不正義です。日本でも今なお冤罪のケースがあります。現在はDNA鑑定などが導入され、調査の精度は高まってきていますが、自白を強要する、あるいはずさんな調査が冤罪を招くケースもあります。

フィリピンではどうでしょうか。フィリピンでは、警察官と犯罪者の境界があいまいであると指摘されています。つい最近では、韓国人ビジネスマンを誘拐し、身代金を巻き上げたものの、実は誘拐後すぐに殺害しているというケースも発覚したばかりです。検察官が事件関係者からの利益供与を受け、起訴事実を軽微にした、裁判官が被告にお金を要求し断って死刑判決等、法が支配していない国において、意図した冤罪の可能性は否定できません。法治国家としての成熟なしの導入とは大変怖い話です。

被害者・遺族の心情

万国共通に被害者・遺族の心情を考えると、被害者は亡くなり、一方で犯罪者は生きているという状況が存在します。これは被害者遺族にとっては大変理不尽な状況です。
しかし、一方で個人的復讐を達成し得ない法治国家にあり、死刑制度の意義は被害者に属するものではないという視点もあります。死刑は結果としての遺族の応酬の気持ちを満たす可能性もありつつ、国家の安定のための装置です。

では、無念な遺族の心情はどうしたらよいのでしょうか。欧州諸国では被害者遺族に対する手厚い支援と死刑廃止の双方を両立しています。フィリピンでそれがどこまで達し得るのかわかりませんが、被害者遺族に対する支援の充実が死刑の有無以前に優先されることかと思います。

また、犯罪者への「許し」はとても内面的なプロセスであり、容疑者が死刑によって亡くなっても必ずしも許しや心の安寧を得られることはできません。実際、これはマルコス時代の戒厳令発令中に亡くなった多くの若者遺族、またはレイプされた女性たちの証言を実際に聞いても明らかです。彼らはまだ苦しんでいます。そして、その内面の安寧は個人に全面的にゆだねられている現状です。


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