コミュニティを作る活動!Mass ++(マス・プラス・プラス): 演劇ワークショップ

先週の企画、Music Nightは好評を博しました。その勢いにのって今週は演劇ワークショップを企画・実施しました。クリスチャンとして、または良き市民として日常で直面するジレンマをどう建設的に解消するのか、そして一つのシチュエーションを設定し参加者全員が演じます。



参加者は連休ということもあり少なめの13人。13人中2人は神父さん。二つのグループに分かれて、ジレンマが生じる状況を経験や見聞きした話を交えてディスカッションします。
 

ジレンマ、ここでは哲学的に定義したものではなく、単純にある問題に対して、2つの選択肢が存在し、どちらを選んでも不利益があるため、態度を決め兼ねる状態を指しています。

ジレンマの例

例えば、フィリピン人のジレンマとして、家族に仕送りをして助けることが日常的に行われているものの、夫あるいは妻がその仕送りに対して肯定的ではない状況。仕送りをすれば、夫や妻が怒る(金銭問題とその他の問題が積み重なって仲がうまくいかなくなったという話をしばし聞きます。)、仕送りを送らなければ甥っ子や姪っ子の授業料が滞って学校に行けなくなる。あくまで例え話ですが、この手の話はしばし聞きます。

私の日常のジレンマとしては、あまりにも公共スペースが汚い家に住んでいるので、どうしても私が汚したものでないものまでも私の時間を使って掃除しなければならないことです。まさに負の外部性。私のサービス(無償奉仕)にただ乗りする輩(フリーライダー)にイラつくものの、やらないと収集がつかないのでやるわけです。

さて、ディスカッションで出てきたジレンマで出てきた類型で多いもの
① 両親の宗教の違い、そこから来る指導の違い
② 宗教・倫理的価値観と個人主義

① 両親の宗教の違い、そこから来る指導の違い

#1は、どちらかと言うと身近な家族間のジレンマを挙げていました。フィリピンでもそうでしたが、インドネシアでもお母さんがクリスチャン、お父さんがムスリムもしくは反対のパターンがしばしあるようです。私が聞く限りでは、ムスリム男性はクリスチャン女性と結婚が可能だけれども、女性が改宗しなければならないというものですが、実はそれを忠実に守っている家ばかりではないようです。

子どもは両方の宗教を知る機会に恵まれるわけですが、宗教的アイデンティティを形成するうえで難しい状況を通過します。また教育方針も一致が見られない場合には、子どもたちの混乱が想像できます。お母さんまたは、お父さんの側を尊重すべきか。。。どちらかを宗教的実践のために選択をしなければならないとしたら、子どもにとってはシンドい選択になります。

② 宗教・倫理的価値観と個人主義

#2についてはより社会全体の傾向をとらえてのジレンマ状態、かつて評論家の小浜逸郎さんが「なぜ人を殺してはいけないのか」ということを出版されましたがその本の問題群などに近い問題提起でした。

一つのたとえとしての援助交際。援助交際は、女性が金銭等を目的として相手を募り、性行為などを行う売春の一形態で、1996年には流行語対象ともなり社会的認知度が高くなりました。日本では18歳未満の児童を対象とした売春は、児童買春・児童ポルノ処罰法によって、児童買春とみなされますが、それでもお金を稼ぐ手段として高校生のあいだでも行われていました。

18歳未満は明らかに法に抵触するわけですが、「人に迷惑をかけていないのだからいいじゃないか」と言われ、それに説得力をもって議論できる倫理・道徳家が居なかったことが記憶に残っています。買う方も売る方もハッピー。両親が知れば大変だけど勿論そんなことは言わないし、警察にだって自ら報告しない。公にならなければ、問題にならないという態度。または、公共の場で度を越してイチャイチャするカップル、飲酒喫煙する未成年。他者に具体的に迷惑をかけているわけではないと彼らは言うかもしれません。フィリピンの人口抑制法(RHビル)も社会に大きな波紋を投げかけた一つのジレンマだと思います。
場を乱す、公共のマナーを乱すと言われるかもしれませんが、他の自由を侵害しない限り、これまで共同体で恐らく共有されてきた不文律の“モラル”を超えた個人の自由の範囲は限りなく広がっていくわけです。クリスチャンの意見として、行き過ぎた個人主義を批判し、モラルの乱れに警鐘を鳴らすものの皆が皆、クリスチャンとして、あるいは良き市民としての共有された倫理観を持っている訳ではありません。放ったらかしにしておくべきか、それともこちらの不利益を承知で何かしらのコメント・考えられるアクションをすべきか・・・。

演劇ワークショップのスタート

それら諸問題をランダムに話しあいながら、2つグループの劇の発表が始まります。

グループA:ストーリーライン

自由と個人主義を過剰に信頼する父と、宗教に熱心で自由・個人主義すぎる夫に苛々する母、そのあいだに立つ子どもが、価値のよりどころとなるべきものがなく、最終的には放蕩娘になり、父親のわからない子を妊娠するという話。

グループB:ストーリーライン

クリスチャンとムスリムの男女が宗教・文化の違いと家族の反対を超えて一緒になるという話。

①Boy meets girl♪
パブロ♂、ディア♀
②交際に発展 パブロはカトリック。ディアはムスリム。

③パブロの両親に紹介
パブロの両親に温かく迎え入れられるディア
④ディアの両親にパブロを紹介
パブロを紹介するディアにお父さんは・・・

⑤宗教・文化、その他諸々、パブロに詰問する父

⑥父は交際反対。しかし、それでもひとまず
パブロの家を訪ねるディアの両親

⑦父はやっぱり持論を変えず・・・
この劇を再度演じ、他の参加者はもう一方のグループの劇に介入します。
この瞬間●●の役割の人が▲▲のように演じたら、状況がもっと良くなったのではないか。

例えば、グループBのクリスチャンとムスリムの男女の話で、デートしている段階でもっと真剣にお互いの宗教の違いや、家族の問題などを話し合っておくべきだったのではと思ったら、女性役あるいは男性役の人とスイッチして、もっと宗教や家族事情についてお互いに思うところを言い、予期されることを話し合うなど、最良だと思われるように行動します。

このケースの肝は、頑なに反対する女の子のお父さんの本意を掴むこと。お父さんは宗教・伝統を守ることに厳しいという側面の他、娘への心配がありました。なので、前もってディアとパブロが話し合い、そしてパブロはお父さんの気持ちを酌んで、二人で話し合ったことを話すことができたなら、お父さんの態度は少しは違ったものになっていたでしょう。
演劇故時間感覚がないものでしたが、本当のジレンマのケースは解決により多くの時間を要することでしょう。

私のこれまでの選択、そして日常、ジレンマに陥り立ち止まり、悩むこともしばしばですが、自身を含めた関係者の心の最良を求める以外に根本的な解決はないようにも思えました。

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