バターン死の行進(Bataan Death March) フィリピン側の語り

フィリピンでは、2009年より日本軍がアメリカ軍を破ってバターン半島を陥落させた4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) と定め、休日としております。過去の戦争を記憶し、フィリピン・アメリカの兵士を称える日です。

バタアン死の行進とは?

第二次大戦中の1942年、フィリピンルソン島のバターン半島でアメリカ軍、アメリカ領フィリピン軍の捕虜等約7万5千人が投降しました。それら捕虜をバターン州のマリベレスから、パンパンガ州のサンフェルナンドを経て、ターラック州のカパスにある捕虜収容所に移送せねばなりませんでした。マリベレス・サンフェルナンド間の約90キロは移送手段がないため徒歩で行きましたが、マラリア、デング熱、赤痢等の熱帯病、戦傷の悪化、飢え等を理由に、約1万人以上死亡しました。

なぜ、歩かせたのかせねばならなかったのか、一説には、捕虜の数が想定よりも多く、移送のための手段、食品・医療が行き渡らなかったと言われます。また、「日本軍としては、10キロ歩くとも20キロ歩くことも同じであった」とする、日本とアメリカにおける軍の慣習や通念が異なったことなども理由とされました。

いずれの事情があっても、結果的に歩かせて、多くの死傷者が出してしまいました。同時に「投降すべきことは恥ずべきこと」として、捕虜を軽んじたり、捕虜への虐待なども報告され、戦後マニラ軍事裁判や極東国際軍事裁判において、その移送に関わった責任者は罰せられました。

フィリピンではどのように語られているか?

日常において、人々は何を感じているのか?

フィリピンに少々長めに滞在し、もしその滞在が4月の上旬にかかっている場合、かなり高い割合で質問されるのが「バターンの死の行進を知っているか?」というもの。日本人学生が原爆投下について知るのと同じぐらい、フィリピン人学生のほぼ100%は「バターン死の行進」について知っています。

フィリピン人にとって4月は、日本人の感じる、8月の雰囲気に似ていると思うことがしばしです。まず、フィリピンの4月は真夏、そして、アメリカ兵が投降し、バタアン死の行進という国民が知る歴史的事件が起こったこと。また、カトリック教徒が大多数を占めるフィリピンに置いて大切な宗教行事である、聖週間(毎年日程が変わるのですが)は3月末から4月にあるためです。フィリピン人の歴史、精神性、宗教に近い出来事や行事ある3月から4月は、特別な意味を持っています。

ニュース等の報道では何が伝えられているのか?

現在、4月9日は英雄の日と定めております。この日は、戦争の記憶がまだ新しい、1961年に定められ、当初は「バターンの日」、とも言われていましたが、1980年以降英雄の日とされ、いっときは5月6日とされましたが、1986年以降は一貫して、休みが固定された祝日として4月9日に定められました。

この日は、フィリピン在住の退役軍人などを表彰する式典がバタアンやコレヒドール島で行われる他、第二次大戦、バタアン死の行進を回想する映像がニュースで放映されたりしますが、ことさらにバタアンの死の行進がいかに残虐であったのか?という報道は、少なくとも確認しておりません。


もちろん、戦後すぐのフィリピン社会は、嫌日的であり、多くの日系人は隠れながら生活していたという過去があり、こうした国民的祝日は、国民の愛国的な心情を刺激したことは想像に難くありませんし、実際、今でもそうした傾向は否定できませんが、これによって反日デモが大々的に起こったりするということではありません。

歴史の授業において

フィリピンの歴史は、アメリカの歴史観に強く影響を受けており、特に戦中の歴史においては、ことさらその影響が強いと考えてよいと思います。

その査証として、アメリカ占領期における残虐な行為に関しての記述が少ない、フィリピンの国民的英雄のホセ・リサールはアメリカの植民時代から定められたものと言った言説があります。

ホセ・リサールはスペイン占領期に文筆により、植民政府の圧政に抵抗したのですが、その闘争は非暴力であり、暴力を伴う改革を臨んだわけではないと言われています。一方、一般市民階級出身のアンドレス・ボニファシオが組織した革命組織カティプーナン(正式名称、Kataastaasang Kagalanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan)は実際に武力闘争に訴え、スペイン占領末期から、アメリカ占領軍へ戦いを挑みました。

暴力的な闘争を恐れたアメリカ占領軍は、暴力闘争を率いたボニファシオを英雄とはせず、ホセ・リサールを英雄とし、ことさらその歴史教育において、国民たちに教育したと言われます。もちろん、「ペンは剣よりも強し!」であり、ホセ・リサールの書いた書籍「ノリ・メ・タンヘレ」「エル・フィリブステリスモ」等が当時の革命闘志たちに愛読されたことは否定されないものの、歴史の大きな転換点を作り出した、カティプーナンとその組織のメンバーとホセ・リサールの扱いのこれほどの違いを不思議に思います。

広島と長崎の原爆について、フィリピン人が教えられる歴史
ちなみに、広島と長崎の原爆投下については、よく知らないというフィリピン国民が多いことに少々驚きました(フィリピンの大学で教えている時に、広島・長崎の原爆について話をしたことがありますが、聞いたことはあるけど、それほどの威力で、それほど多くの人を一瞬にして殺傷したこととは知らなかった等々、反応に驚きました)。あるいは、アメリカの戦争史観が浸透しているため、「これ以上の犠牲者を出さないために投下する必要があった」という人も多いです。

アメリカでもバターン死の行進を記念したイベントがある
バターン死の行進を想い、メキシコの砂漠地帯の約50キロの道のりを歩くというイベントを開催し、毎年一万人近くが参加している。このイベントは1989年から始まったといわれ、多くのフィリピン系アメリカ人が参加しています。

国民のアイデンティティとしての歴史

歴史的な記憶は国民のアイデンティティを形成する上で大変重要です。特に、フィリピンなど占領者により長く支配されてきた歴史を持つ国にとって、過去の歴史をどのように教え、記念日などでどう振り返り、そしてその記憶を国民の中で共有していくことは、アイデンティティの形成の上でとても大切です。

特に近代のフィリピン史における第二次世界大戦、その中で起こったバターン死の行進は、コレヒドール島の陥落、マニラ市街地戦と並び、主たる出来事であったと言って過言ではないと思います。そうした歴史的出来事を深く国民の記憶に刻みつつも、フィリピンに置いては、まだ国というよりも、「地方」に根付いたアイデンティティが強いようです。なので、ことさらにこうした歴史的事件は強調されるのでしょう。

参考ウェブサイト

Bataan Death March

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