[書籍] アンネの日記 ー世界記憶『アンネの日記』とその背景 (2)

2年の潜行生活

潜行者たちは見つからぬよう慎重に生活しました。事務所に人がいる日中は、話声もひそひそと話し、靴音を立てぬようにと靴は脱いでぬき足差し足で歩き、トイレの使用もできません。

絶対に外に出られないと言うことが、私をどんなに息苦しくさせているか言い表すことができません。それに見つかって銃殺されるのではないかと、とても怖いのです。
1942年9月28日 アンネ・フランク
「裏の家」には、フランク一家4人と、ファン・ペルス一家3名、のちに加わるフリッツ・ペッファーさんの8人が隠れ住んでいました。毎日狭い空間で顔を合わせねばならぬため、些細なことで口論が絶えませんでした。
(…)大の大人がほんの小さなことで言い争いをしているのをおかしく思います。私はいままで、つまらないことでの口げんかなんて、子どものすることばかりとかんがえていました(…)
1942年9月28日 アンネ・フランク
静かに過ごさねばならないため、アンネ、マルゴー、そしてピーターは勉強に精をだしていました。戦争が終われば復学できると思っていたためです。外界との接触は、ミ―プをはじめとする非ユダヤ人の協力者でした。食べ物、書籍を調達し、その日の出来事を話してくれます。

それでもアンネにとっても潜行生活は苦痛でした。学校の友人との交流はたえ、行動は限られ、多くを失い、今は日記に心を打ち明けるのみとなります。

アムステルダムー西教会
アンネの生活する「裏の家」から見えた西教会


恐怖

生活は単調なものでしたが、しばし恐怖に見舞われる時がありました。1944年4月9日、事務所に泥棒が入りました。これまでに何度となく泥棒に入られていましたが、今回は通りに面したドアが壊され、近所の人が通報しました。警察が建物中を捜査しました。

それから、11時半過ぎ下でばたばたとした音が聞こえました。私たちはひっそりと、身じろぎ一つしませんでした。皆の息遣いが聞こえるほどです。足音が役員の部屋、台所、そして私たちの階段へ。皆は息を殺し、8つの心臓はどきどきしていました。足音は階段を上ってきます。そして、回転式本棚(「裏の家」への入り口)をドンドン叩く音。この瞬間のことはとても書き表せません。「もう、終わりだわ!」私は思わず口走りました。私15人みんなが、その夜のうちにゲシュタボに連行される光景を目に浮かべました。
1944年4月11日 アンネ・フランク

危機は去りましたが、あまりの恐ろしさにその夜、潜行者たちは眠れぬ夜を過ごしました。
アンネたちが潜行している間に3回泥棒に入られました。アムステルダム市内の物資の欠乏の故です。泥棒が一家の存在に気づいて密告しないか、心配でした。また、倉庫で作業する作業員も時々一家の協力者であり、従業員であるミ―プが多くの買い物をして上の階に上がっていく様子を目撃しています。

密告

それは1944年8月4日の夏の日、朝の10時から10時半ごろにドイツ警察が裏の家の一家をとらえ、連行しました。いつものような単調な一日に突然起こった出来事でした。この時の逮捕に加わったのがカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーとオランダ人の私服警官でした。

ジルバーバウアーは一家が2年間もこの隠れ家に住んでいたことが信じられず、オットーが壁に刻んだアンネの成長のしるしを見せたと言います。また、ジルバーバウアーはオットーが持ってドイツ軍軍用トランクを発見します。オットーは、一次大戦でドイツ陸軍中尉だったことをジルバーバウアーは知り、態度を一変させました。

潜行者たちは許された少しの衣類を持って、トラックで警察署に連行されました。そのとき、一家の協力者であったフィクトル・クグラ―とヨハネス・クライマンも連行され、収容所に送られましたが、生き延びました。ミ―プとベップは連行されませんでした。

同日の夕方に裏の家に入り、日記の他、家族のアルバム、書籍などを持ち出しました。それから一週間後、一家の家具はドイツ軍によって持ち去られてしまいます。

逮捕・連行されて4日後の8月8日、一家はオランダ北部のヴェステルボルク通過収容所に移されました。それから約一カ月後、9月3日に他のユダヤ人と一緒にアアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移動しました。

強制収容所へ

強制収容所に到着すると、働けないもの、15歳以下の子どもは即殺害されました。アンネたち女性は、ビルケナウの女性収容所に収容され、オットーをはじめとする男性は男性収容所に。アンネは父のオットーと今生の別れとなります。

強制収容所のいくつかは絶滅収容所として機能していました。これは、ホロコーストを目的として、設立されたものです。数十ヵ所ある強制収容所のうち,ガス室を完備していたのは,ドイツ占領下ポーランドの絶滅収容所であったアウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネック。ガス室での殺戮は,1942年にはじまり1943-1944年に本格化しました。

1944年の10月末、母のエーディットを残し、アンネ、姉のマルゴット、そして裏の家の住人ぺルス夫人とともベルゲン・ベルゼン強制収容所に移動させられます。食糧はほとんど与えられず、極寒の収容所の生活条件は想像を絶する厳しさでした。その後、アンネもマルゴーもチフスにかかり、強制収容所を英国軍が開放する2-3週間前に亡くなりました。「裏の家」の住人で生き残ったのはアンネの父オットーのみでした。

近年の推定によると、ホロコーストの犠牲者数は数百万人(諸説あります)ユダヤ人が大多数でその他、ロマや共産主義者、社会主義者、同性愛者。ホロコーストにより全ユダヤ人の3分の1、3分の2のヨーロッパのユダヤ人が殺戮されたと言われています。

私達は皆、幸せになることを目的に生きています。私たちの人生は一人ひとり違うけれど、されど皆同じなのです。
1944年7月6日 アンネ・フランク

これまでの歴史の教訓を学び、このアンネが残した言葉の意味を今ひとたびかみしめるべきではないでしょうか。

世界記憶(Memory of the World: MOW)とは?

私の最大の願いは有名な作家になることです。
アンネ・フランク

当時のユダヤ人の生活を克明に記録したアンネの日記は、ユダヤ人とその運命のシンボルとなりました。そして、その当時のユダヤ人たちと同様に、私たちが生きる現代でも出身・肌の色・国籍・宗教などの違いから迫害されている人たちが抱える問題にも通じてくる普遍性があると思います。

私が私として生きることを、許して欲しい。
アンネ・フランク

そう願い、そう思って生きざるえなかったアンネ。世界にもそういう状況で生きざる得ない人もこの21世紀を迎えてもいることを思うと、この物語は今をもっても非常にアクチュアルで、何度読んでも色あせない名作であり、その背後に歴史の教訓を感じます。

こうしてアンネの日記は、2009年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶に登録されました。世界記憶1992年ユネスコが歴史的な文書や絵画、音楽を後世に残すために登録する事業です。手書き原稿、書籍、ポスター、図画、地図、音楽、写真、映画等の記録遺産を対象とし、以下の3つの条件を満たすこととされています。
1.多くの人のアクセスを可能とすること。
2. 記録遺産の存在及び重要性の啓もうを加盟国に行うこと。
3. 最新の技術で保存、広く公開すること。
この世界記憶遺産となっているのは、べートーベン「第九」の楽譜、カンボジアのトゥール・スレン虐殺博物館の記録など。
世界の記憶は、ユネスコの他の2つの遺産事業とは異なり条約に基づく保護活動ではなく選定事業に過ぎないことである。

オランダの開放記念日(5月5日)を前後して、いろいろと思い返してしまいました。


前のページ、アンネの日記とその背景



参照サイト
United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization,
Memory of the World http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/homepage/

ホロコースト博物館、ビアン会議
https://www.ushmm.org/outreach/ja/article.php?ModuleId=10007698

スポンサーリンク

スポンサーリンク

Subscribe