自由を祝う日ー5月5日はオランダの解放記念日

 5月5日はオランダの解放記念日(Bevrijdingsdag(蘭)/Liberation day(英))、ご近所はオランダ国旗が昨日から続く強風ではためいています。1940年5月10日、ナチス・ドイツによるオランダの占領が始まりました。その4日後、ロッテルダムの街は爆撃され、オランダ司令部は降伏し、5年後1945年カナダ軍によって解放されるまで、ドイツの占領下にありました。その間、オランダに住むユダヤ人への弾圧、収奪に対するレジスタンスもありました。終戦後、オランダ人は5月5日を解放記念日として祝うこととしました。

オランダ国旗
オランダでは、国民の祝日となる、国王の誕生日、解放記念日などの日にオランダ国旗を掲揚します。そのため、家屋にはたいてい旗のポールを立てられる場所が設置されています。(これで、オランダ人が住む家か、移民が住む家か、大体わかったりするのですが・・・・)


オランダの解放記念日の持つ意味

オランダの解放記念日は、毎年5月4日に開催される「Dodenherdenking(蘭)/National Remembrance Day(英)/戦没者追悼記念日」の翌日に祝われます。オランダでは、追悼する日と祝う日の両方があります。第二次世界大戦の終結を記念して行われていましたが、ここ数年、解放記念日は自由を祝うための日となっています。

戦争を体験しない世代である我々は、自由な社会で生きられないことがどのようなものかを知りません。そのため、解放記念日は、自由を当たり前のものと思わず、自由な社会で暮らすことの素晴らしさを祝う日とされました。

何をするのか?

解放記念日のイベントは通常、首相によって開会されます。約5000人のランナーからなるチームが、オランダ全土の200の自治体に向けて炎を運び、それがすべてのイベントの公式開始となります。国内の主要都市でフェスティバルが開催されます。昨年と今年は、新型コロナ感染症の関係で行われませんが、毎年、解放記念日には、オランダではパレードやコンサートが開催され、また、軍の記念品も展示されます。

Liberation day Holland 2017
(c)KEYTOWN 071 ADVENTURES

第二次世界大戦のオランダー解放までの道

ドイツの隣国であるオランダは、早い時期からドイツ軍の脅威にさらされ、1940年5月10日から1945年5月5日に解放されるまでの5年間、ドイツの占領下におかれました。その間も、連合軍に解放されるまで歴史的に知られる、マーケット・ガーデン作戦、スヘルデの戦い、等がありました。

「遠すぎた橋」ーマーケット・ガーデン作戦

1944年9月初旬、連合軍はブリュッセルを解放しました。この時、イギリスのバーナード・モントゴメリー陸軍元帥は、連合国最高司令官であるアメリカのドワイト・D・アイゼンハワー将軍に、「マーケット・ガーデン作戦」の計画を提示しました。
連合軍がオランダの主要河川に架かるいくつかの橋を攻略すれば、連合軍の一部は難攻不落のジークフリート防衛線を迂回して、ドイツの戦争機械の心臓部であるルール地方を突破できるというものでした。残念ながら、このマーケットガーデン作戦は失敗しました。その様子は、映画「遠すぎた橋」に描かれた通りです。

スヘルデの戦い

スヘルデの戦いは、1944年の秋にベルギー北部とオランダ南西部のゼーラントで行われた一連の軍事作戦です。アントワープ港が解放された後、連合軍は連合軍戦線への補給線を開くために、シェルト河口から占領下のドイツ軍を排除することを目的としました。この戦いは多くの犠牲を伴いながら、この戦いによって補給線を確保することができ、この勝利が、オランダ解放の布石となりました。2019年、カナダ造幣局はオランダ解放の道を開いたスヘルデ戦勝75周年に勇敢なカナダ兵をたたえる銀貨発行しています。

ライヒスヴァルトの戦い

1944年の冬、作戦地域の連合軍部隊は、オランダ東部ドイツと国境を接するナイメーヘン周辺の多くの場所で足踏み状態になっていた。「ライヒスヴァルトの戦い」として知られる「ヴェリタブル作戦」が始まるまでは、しばしば静止した戦いが繰り広げられていました。
この作戦は、第二次世界大戦の終結に向けた決定的なターニングポイントとなりました。ラインラント攻防戦の幕開けとなったこの作戦は、ライン川の西側の地域を奪還し、最終的にライン川を横断するための大規模な作戦で、イギリス、カナダ、アメリカの膨大な数の兵士を結集して、枢軸国をドイツに押し戻しました。

ユダヤ人の迫害

第二次世界大戦前まで、オランダにユダヤ人はは14万人おり、生き延びたのは約3万8千人と言われています。オランダにおけるユダヤ人の迫害は、ドイツのオランダ占領の早い段階から始まりました。「アンネの日記」のアンネ・フランクの一家は、1930年代にドイツからオランダに亡命しましたが、その後、占領ドイツ軍による、ユダヤ人迫害が厳しさを増し、1942年7月から1944年8月までの2年間、アムステルダムの隠れ家での生活を余儀なくされます。最終的には、見つかり、家族はそれぞれ、強制収容所に送られてしまいました。

関連ブログ「[書籍] アンネの日記 ー世界記憶『アンネの日記』とその背景 (1)

5年に一度の祝日?

大切な日、しかし、5年に一度しか祝日になりません!よって、次に祝日となるのは、2025年です。祝日は、公共交通機関も運休あるいは異なる時刻表で動きます。毎年5月5日を祝日にすべきかどうかについては、常に議論があるそうですが、現時点では、5年に一度のみです。

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