過ちを認めること、そして許すこと

マリケルの話しでは、マリケルはこの
悪魔を許したのだけど・・・
  自分の過ちを認める事ほど難しい事はない。事態を解決に導くためには、素直に自分の落ち度を認めるのが何よりである。ベンジャミン・ディズレーリ(イギリス政治家)
 
 人格者とは、一体どういう人のことを指すのか?国内外を問わず素晴らしい人に出会う度に彼らを説明する色んな形容詞が浮かびますが、人格を測る一つの指針として自らの「過ちを認める」を上げることができるのではないかと思います。そして、彼らは過ちを犯した自分自身、あるいは他人と対する時の心のあり方を知っていると思います。「過去を忘れ、心から怒りを消し去れ。どんな強い人間もそんな重荷に耐え続けることは出来ない。」とチェロキー族の格言にあるとおり、過ちは怒りとなって残りますが、怒りを抱えるというのはそもそもエネルギーが必要です。キリスト教では「許し」という考え方がありますが、インドでは
「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えると聞きます。
 過ちを犯してしまった時の態度、そして過ちを犯した自分、あるいは他人への態度過去を振り返りました。

マリケル
[過ちを認める難しさ]
 過ちを認めるのは大変難しいと、経験からも思います。ベンジャミン・ディズレーリですら、難しいというのですから、私のような意地っ張りで、プライドが無駄に高い人にとって認めることは難しいです。旦那に言いすぎてしまった時、同僚と口論になった時、振り返って自分の非を認めるまでに時間がかかります。100%私の非ではなくてもお互い言い合って、意図的にではないにせよ傷つけたりしていると感じるので、何となく心が落ち着かなくなり、怒りが収まったら(大体はお互いに)謝る感じです。けど、始めの一言を言うのに勇気がいります。

 先日ちょっとした出来事があり、上記のような格言を思い出しました。知り合いが多く読んでいるため詳しくは書けません(汗)が、しかしそこまで深刻ではない話なので、かいつまんで・・・友人が皆のお金で購入した大切なものを盗まれてしまうという事件がありました。購入した品物は会合で使われる予定でした。会合をキャンセルする訳にも行かず再度同じ品物を購入しました。しかし問題は盗まれた品物を購入した友人が、代金を全額請求してきたことでした。
 
 私がことのいきさつを聞いて思ったのは、支払うべきではないということ。理由は至って単純。
① 購入物の管理はその友人の責任
② レシートを提示できない

何故かクマちゃん登場
友人として購入したことを信頼できても、会合としてはお金を出せないというのが原則。借りにレシートがあっても、使用していないものを払うのにはどんな理由を言っても難しい訳です。しかしその友人はごねて、「どうしてもそのお金が必要。会として私に支払わないのは、フェアではない」と言います。幾度も友人間で納得する案を彼女に提案するも、全額返金の意向は一切変えないばかりか、もう疲れたから早く解放してくれモード。説得する友人たちは、苛立ちを隠せません。友人はすでに「自己防衛」に入って一切自らの非を認めず、自分の権利と信じるものを追求しました。議論すること1時間弱。まさに議論は暗礁に乗り上げ一向に進むわけでも後退するわけでもありません。
 他人事ではありませんでしたが、会話のやり取りを見て、孔子の「過ちて改めざる是を過ちと謂う」という格言を思い出しました。支払う、支払わないかの議論の前に友人がすべきことは謝罪を述べることだったと思います。これは、文化の違いでは済まされない話です。理不尽なことをする人ほど謝らないという話をしばし聞き、自らも経験していますが、ここまで意固地に自らの非を認めないのは初めて見て、はじめは強い憤りを感じましたが最後のほうはもうこの人が後で人間関係で苦労するのは知ったものかと、呆れモードに入りました。
 
 「過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ。」吉田松陰。どんな人でもレベルと程度の差こそあれ、間違いを犯します。自分自身のみに降りかかるものから、他人を巻き込んだものまで。偉人と言われる多くの人が「過ちを認める」ことの難しさ、そしてその重要性を格言として残すということはきっと、彼らにとっても課題であったのでしょう。となれば私にとって難しくないはずはない。しかしそれを言い訳せず、何が悪かったのか(対人に限らず自分自身の中でも)、誤りを凝視することは苦しいものの非があるときには認め、それを修正していく潔さと人格を養わなければならないと思いました。

[許すこと]
 上記の事件では、他人に迷惑をかけた友人の居直りが周辺関係者の怒りを誘いました。更に過去に起こったことまで友人間で、言及し始めるという事態になりました。そうなるともう泥仕合です。 私たちが怒りを感じたのはほかでもなく、モノを紛失して損害を生じさせたということではなく、その友人の傲慢な態度でした。払えるお金があるのだから、とっととそのお金を私に渡しなさい、という態度、その人格を有する友人を憎むのは容易いですが「我々がある人間を憎む場合、我々は彼の姿を借りて我々の内部にある何者かを憎んでいる」という言葉があります。友人の姿を通じて、自分自身の醜さも見た気がしました。

 マハトマ・ガンジーは「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。」植民地支配への怒りのエネルギーを大衆を束ね、相手を恨むことではなく改革へと導こうとしました。「怒り」は全て悪いものだとは思いません。個人を奮い立たせ、また変革への動機付けになると思います。しかし、特定の人格へ向けられる怒りというのはある種の「毒」のような気がします。

 自ら犯した過ちを認め、それを改めていくこと、そして過ちを犯してしまった自分自身、友人などを許すこと・・・などごちゃごちゃ考えながら、しかし上記の事件納得がいかないのでコトの成り行きを見守ります(汗)

最後に聖書の新約聖書 コリント人への第一の手紙 第13章から。
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」

この言葉を胸に精進します。
 



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